☆ インフレは徴候 ☆

井出薫

 近頃の報道で気になることがある。アベノミクスの真の目的は景気回復と持続可能な経済成長にある。ところが、物価上昇率(インフレ率)ばかりが注目され報道されている。

 ウィトゲンシュタインは基準と徴候を区別した。たとえば、インフルエンザの基準は、インフルエンザウィルスが体内に侵入し、細胞内で増殖し細胞を破壊して外部にウィルスが広がる状態とされる。一方、インフルエンザの徴候として、急な発熱、悪寒、関節痛などが挙げられる。インフルエンザの基準が満たされればインフルエンザは確定する。しかし徴候だけではインフルエンザが疑われても、断定はできない。同じような症状を示す病気は他にもたくさんある。また、インフルエンザの基準が満たされても、必ずしも徴候が現れないことがある。身体が頑健あるいはワクチンの効果などにより、微熱くらいで徴候がはっきりしないことは珍しくない。つまり基準と徴候との間には関連があるが、明確な因果関係が存在するとは限らない。ウィトゲンシュタインは、人々がしばしば基準と徴候を混同して誤った議論をしていると警告する。

 インフレ率は基準ではなく徴候に過ぎない。確かにインフレと好景気、失業率の低下などには正の相関がある場合が多い。インフルエンザが流行しているとき、開業医たちは、簡易検査キットでインフルエンザウィルスが検出されなくても、39度を超える高熱や関節痛がある場合、インフルエンザと診断して抗ウィルス薬を処方することがある。診療所での検査では精度の点で限界があり、かと言って、全ての患者を大病院に紹介することは現実的ではない。それゆえ開業医たちは時として徴候を頼りに診断をくだす。そしてそれは決して誤った措置ではなく、患者の苦痛と危険を防ぐ賢明な措置だと評価される。それと同じ意味で、便宜的にインフレ率を景気回復の指標として使うことも間違いとは言えない。

 しかし、景気回復や経済成長の判定は、感染症患者の治療のように急を要する問題ではない。それゆえ、インフレ率だけを見て、景気回復しているかのように報じることには問題がある。そもそも長いデフレの反動でインフレが良いことであるかのように論じられることがあるが、インフレ自体は決して良いことではない。インフレになっても収入が増えない高齢者や自営業者にとって、インフレはしばしば大きな打撃となる。ただ現代の自由主義経済では、インフレ率がマイナスあるいはゼロ状態で好景気が出現することはまずない。だからインフレ率を景気判断の材料に使っている。だが景気はインフレ率だけでは決まらない。

 景気が悪化しているなどと批判するつもりはない。しかしインフレ率だけに注目し景気判断するような姿勢は厳に慎む必要がある。特に影響力の大きい報道機関には冷静な分析が求められる。


(H26/4/6記)


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