☆ 憲法解釈 ☆

井出薫

 安倍首相が集団的自衛権の是非を巡って、「憲法解釈の権限は総理大臣にある」という類の発言をして、批判を受けた。ところが懲りもせず、閣議決定で憲法解釈を変更すると言う。閣議決定には全閣僚(大臣)の賛成が必要となる。反対する閣僚がいると閣議決定は成立しない。自公連立政権ということもあり、現在の閣僚には公明党枠が一つある。公明党が憲法解釈の変更に慎重な姿勢を崩していないので、憲法解釈変更を提案しても、公明党出身の大臣が反対するから成立しない。しかし、総理大臣には閣僚の任命・罷免権がある。しかもこの権限はいつでも発動することができる。閣議で議案に関して反対する閣僚がいても、閣僚をその場で罷免して自らが代行することで、全員一致の決定を下すこともできる。自分以外の全員を罷免することもできる。衆院の解散権は総理大臣が有すると言われるのも、総理大臣の閣僚の任命・罷免権に基づく。もちろん、いきなり公明党の閣僚を罷免することは連立政権の枠組みを解体することを意味するから、そう簡単にはできない。しかし、現時点では、自民党は公明党との連立を解消しても、衆参共に過半数を占める。しかも憲法問題では自民党に極めて近い立場を取る維新の会とみんなの党を公明党の後釜に据えることも不可能ではない。つまり、その気になれば、安倍首相は自分の意志を閣議決定で正当化することができる。それゆえ閣議決定という形にしても、現体制においては、実質的に憲法解釈の権限が総理大臣にあるということに等しい。

 憲法81条に明記されているとおり、合憲・違憲の最終判断は最高裁が行う。しかし、安保、自衛隊に関して言えば、最高裁は統治行為論に基づき憲法判断を回避している。最高裁の判断の是非は別にして、統治行為論は、憲法解釈の権限を内閣に与えるものではない。国民主権の原則に照らして、立法府が国民の意思を尊重して決定するべき事案と考えるべきだろう。こうして考えていくと、憲法解釈の権限は最高裁か国会にあることになり、内閣にはないことになる。

 但し、最高裁が有するのは最終的な判断権限であり、内閣が憲法を解釈することを否定するものではない。内閣は具体的な事案における法の執行、内閣提出の法案策定など、様々な局面で、自らの行動が憲法に合致しているか、その都度、憲法解釈をしていると言える。そして、その解釈が恣意的にならないようにするためには、一定の解釈のルールが必要になる。そのために存在する機関が内閣法制局であり、たとえば自衛隊と安保の合憲性については、内閣法制局の判断によるものとされている。集団的自衛権の容認についても、当初は、内閣法制局が憲法解釈の変更を表明することが期待されていた。その期待を込めて内閣法制局長官を首相に近い人物に交代させた。ところが、判例と同様、一度確立された判断(=「現行憲法は集団的自衛権を認めていない」)を長官が交代したからと言って簡単に変更することができる訳ではない。そのようなことができたら、内閣法制局そのものの存在意義がなくなる。その結果、期待した内閣法制局からの解釈変更の表明がでてこない。そこで内閣法制局に期待できないと踏んだ首相が、最初は自らが、そして批判を受けて閣議決定と言う形で解釈変更をするという方向へ戦術を転換したというのが事の顛末だろう。

 確かに、一般論としては、閣議決定で憲法解釈を変更するという手法が絶対に許されない、憲法に反するとは言い切れない。しかし、首相が外交で盛んに口にする「法の支配」の精神からすると、やはり首相の考えには同意できない。議院内閣制の下、立法と行政は一体化しやすく、チェックアンドバランスを保つことは容易ではない。特に民主党政権が不発に終わったこともあり実質的に自民党長期政権が続き、それと表裏一体で官僚機構の力が強い日本では、特にその傾向が強く、国会と内閣の馴れ合い、行政権力の肥大化が日常化している。さらに、自衛隊、安保、議員定数の問題に見られるように、司法の立法と行政へのチェックも弱い。三権の分立とその間のチェックアンドバランスにより、基本的人権と民主制を守ると言うのが、近代立憲民主制の原則で、戦後日本の政治体制の根幹をもなす。ところが、日本ではこのチェックアンドバランスが十分に機能していない。ただでさえ内閣総理大臣の権限が強すぎる嫌いがあるところにきて、(行政事務遂行と法案策定という範囲に留まるにしても)憲法解釈の実質権限が総理にあるとなると、総理の権力が余りにも巨大化することになる。このような状況は「法の支配」の精神に反する。法の支配は「人の支配」を排除し、統治する者もまた法に服することを命じる。

 「法の支配」は単なる法治主義とは異なる。憲法の条文と立法府が制定した法律に違反していなければ良いということではなく、より高次の遵法性を要求される。この場合、遵法とは明文化された法の条文だけではなく、民主、人権、平和という基本思想(憲法で表現されている思想、憲法的価値)を尊重することが要求されている。それが安倍内閣では守られておらず、総理への権限集中が目指されているように映る。確かに、法の支配とは言っても、所詮法は人が作る。たとえ自然法のようなものが存在するとしても、それを発見した者が、(明文法だけではなく慣習法を含めて)法として制定しない限り、人々の行動を規定し拘束することはできない。だから、法の支配には限界がある。法治主義だけでは独裁(たとえばナチの独裁)を回避できないというところから、英米を中心に、法の支配という原則が広く用いられるようになったのだが、「法の支配」でも独裁を回避するには十分ではない。「法の支配」を尊重する意志と力がないと法の支配は絵に描いた餅になる。このためには、政治家、官僚、裁判官など国家の中枢を占める者たちと一般市民、その双方に、その意志と力が求められる。私たちはしばしば強い政治家を求めてしまう。たいてい支持率の低い政権、政治家への批判理由には、「リーダーシップの欠如」、「実行力の欠如」がトップに挙げられる。確かに、実務家として政治家特に政権を握る政治家には、強い指導力と実行力、決断力が求められる。そして、それを求め、政治家の能力の判断基準とする市民の考えは正しい。しかし人権と民主制が守られる社会では、「思想」の世界には、何人であろうとも人の上に立つ者はいない。誰の思想であろうと、それが市井の一市民のそれよりも優越することはない。思想においては、最高権力を握る政治家と言えど、一般市民と同じであり、他者の批判に耳を傾けず、自らの思想信条のみが正しいとして、権力を行使することは許されない。

 思想は人の行動を規定し制約する。国家も同じであり、思想が国家の制度や行動を規定し、制約しないといけない。そして、思想という次元においては総理といえど一市民でしかない。確かにこういうことを現実の政治制度の中でどのように実現していけば良いのか、それを明らかにすることは難しい。それが簡単にできるのであれば誰も苦労しない。理想はすでに実現していただろうし、政治学や法学は不要の学になっていただろう。だからと言って絶望したり、こういう理念を非現実として非難したり無視したりすることは正しくない。総理は行政(執行)の最高責任者として、市民の生命と権利を守るため、時には専制的とも見える権力を行使しないといけないことはある。だが、平時においてはその行動は極めて慎重であり、「法の支配」に基づき常に自分の行動や言説が過剰な権力行使に繋がっていないか、法の軽視に繋がっていないか反省する必要がある。そして思想においては決して一般市民の上に立つ者ではないこと、討議参加者の一人に過ぎないことを認識する必要がある。そして、市民は政治家にただ実行力や決断力を求めるだけではなく、言動において、特にその思想において、謙虚であり、慎重であることを求め、それに相応しい言動をとっているかをチェックしないといけない。政治家や強い権限を持つ者の言動がしばしば話題になり、批判されることがある。それに対して、近年、「自分の意見を言ってどこが悪い」などと反論することが、当人だけではなく、一般市民の間からも増えている。なるほど過剰に他人の言葉尻を捉えて非難のための非難をすることは不毛な振る舞いと言わなくてはならない。だが責任ある地位に就く者の言動をチェックし、時には批判し反論すること、時には支持し支援することは報道だけではなく市民の重要な役割の一つになる。そのことを忘れないようにしたい。


(H26/2/23記)


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