井出薫
消滅したわけではない。だが著しく後退していることは否定しようもない。福島原発事故を受けて一時期高揚した反原発・脱原発の動きのことだ。 原発維持あるいは推進が絶対に間違いだと決めつけるつもりはない。しかし決して減ることがない放射性廃棄物、事故の影響の巨大さを考えれば、脱原発に説得力があることは間違いない。 ところが、アベノミクスで株価が上がったとたん、多くの者は脱原発を放棄した。脱・脱原発に宗旨替えしたと言ってもよい。一時期盛んに原発の是非を問う特集が組まれていたテレビでも、近頃ではほとんど話題になることはない。それどころか、原発に批判的に(見えた)朝日新聞ですら、6月7日金曜日夕刊では、日仏首脳会談で原発の重要性の認識(=実質的な原発推進)で合意したことを1面トップで論評抜きに報じている。否定的な立場をとる場合、批判的に報じるか扱いを小さくするのが新聞の慣わしであることを考えると、この記事は肯定的な立場を示している。報道もすっかり脱・脱原発に転向した。 短期的にみれば、原発よりも景気かもしれない。だから景気をよくするために原発推進だという意見が出てくるかもしれない。だが問題は、あの脱原発は何だったのかということだ。日本が欧米よりも劣っているとは思いたくないが、短期間での脱原発運動の衰退は日本の民主制の脆弱性を物語っている。いやそもそも未だ民主制は日本には根付いていないと言うべきかもしれない。市民が政治と文化創造の主人公になって初めて民主制が根付いたと言えるからだ。 煮え切らなかったとは言え、曲りなりにも民主党政権は脱原発を進めようとし、野田前首相は脱原発運動家との会談を開催した。ところが脱原発に好意的な民主党政権時代は、散々政権を攻撃し、原発推進派の自民が政権に復帰するや否や運動が萎む。単に時期の問題だけかもしれないが、これでは意義のある市民運動だったとは言えない。 短期的には、景気が政治や文化よりも優先するとしても、長い目でみれば民主制の深化と拡大は景気よりもずっと重要な課題になる。脱原発運動は特定のイデオロギーに偏ることなく多くの一般市民が集う本格的な、日本の歴史で初めての市民運動へと発展することが期待された運動だった。しかし(ある程度は予想されたとは言え)期待外れに終わった。特段状況が変わった訳でもなく、原発推進に方向展開しないといけない理由もないのに、人々はそこから離れた。それは所詮流行に過ぎず長続きしなかった。 だが、たとえ「流行に過ぎなかった」としても、貴重な第一歩だったと思いたい。アベノミクスで一時的に景気が回復しても長続きはしないし、人々の生活は充実しない。市民が自ら社会を設計し転換し新たに構築していく、こういう社会が実現して初めて民主制が実効性を持ち、市民が社会の主体となる。代議制は強力な市民運動が存在することで初めて民主的な道具として機能する。原発は課題が多く解決は困難だ。今一度市民が抗議のために立ち上がることは大いに意義がある。原発だけではなく、他にも、福祉、環境、経済格差など市民が行動すべき課題はたくさんある。筆者を含めてそのことを肝に銘じておきたい。素晴らしき日本の未来のために。 了
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