☆ 憲法を考える ☆

井出薫

 安倍首相の経済政策は一定の評価をするが、その改憲論には賛成しがたい。自衛隊や日米安保が第9条と整合しないことは認める。だが憲法を変えるのではなく、時間を掛けてでも現実を現行憲法に合わせるよう努めるのが日本の進むべき道だ。平和の理念だけではなく、基本的人権の面でも、日本国憲法は諸外国の憲法と比べても先進的と評価されている。前文には、おそらく現代世界に生きる多くの人々が共鳴できる理念が謳われている。政界では改憲派が多数を占めるが、現時点で憲法を変える必要はない。また選挙では自民や維新に投票するが憲法改正には賛成しないという者もたくさんいる。

 だが、その一方で、憲法は決してそれ自体、至高の理念ではないことを忘れてはならない。基本的人権で先進的と述べたが、憲法で基本的人権が保障されている者は、日本国籍を有する日本国民に限られる。日本の法をきちんと守り、税金を納め、日本で平和に暮らす在日外国人の人権は制限されている。参政権はなく、政治献金も許されない。在日外国人の参政権付与には多くの異論がある。しかし少なくとも地方レベルの参政権は認めるべきだろう。参政権が欲しければ日本国籍を取得すればよいではないかという異論も分からないではないが、母国に愛情を感じている者はそう簡単には国籍を変更することはできない。だからと言って、身近な生活に直結している地方レベルですら参政権を認めないのは、人権の理念に反する。しかし現行憲法で保障される基本的人権の享受は日本国民に限定されているから、憲法を根拠に在日外国人の参政権に道を開くことはできない。(ただし、外国人に参政権を与えることが違憲だということではない。)

 第24条には「婚姻は、両性の合意にのみ基づく」とある。これは明らかに婚姻の形態として男女の婚姻だけを想定している。第13条の幸福追求権などから、同性婚の容認が違憲とは言えないだろうが、それでも同性婚を容認するようには書かれていないことは間違いなく、同性婚を認めないことが違憲だということにはならない。同性婚の是非には議論があり、反対する者が多くいることは分かっているし、その論旨も理解できる。だが同性婚を認めないことが同性愛者に差別的な社会を作り出していることに注意が必要だ。ここでも憲法には限界がある。

 第31条には、「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、その他の刑罰を科せられない。」とある。ここで「生命」という言葉があることに注意しよう。これは法の定めがあれば生命が奪われることもありえることを意味している。事実、第36条で、残酷な刑罰が禁じられているにも拘わらず死刑制度が容認されるのは、31条の規定に基づいている。死刑制度の是非についても様々な議論があり、日本国民の多数が死刑の存続を望んでいる現実は無視できない。海外の一部の人権団体などが、死刑制度の存在だけを捉えて、日本の人権状況を実態以上に低く評価することには筆者も強い抵抗感がある。それでも逮捕拘束され無抵抗の者に人為的に死を与えるという残虐性、また誤審の可能性をゼロにはできないという現実に鑑みるとき、死刑制度の見直しは早晩不可欠になると考える。だが憲法を根拠に死刑制度を廃止することはできない。(ただし、ここでも死刑制度の廃止が違憲だということではない。)

 これらの事実は、憲法はそれ自身が至高の理念ではないことを証する。それゆえ、憲法は、より高次の倫理に基づき、その妥当性が評価されるべきものと考える必要がある。もとより、「より高次の倫理とは何か」という難題に答えることは難しい。それを口にする、あるいは紙に書いて示せばその瞬間、憲法がそうであるように、その「より高次の倫理」の妥当性を、「さらにより高次の倫理」で評価する必要が生じる。そしてこの過程には終わりがない。だが、それでも憲法はそれ自身で正当化されるものではなく、より高い理念としての倫理に基づき評価されるべきものと考えることが望まれる。近隣諸国との領土問題、軍事的脅威などという歴史的、地域的に限定された現実だけを見て、理念という側面から見て優れた側面を多く有する現行憲法を安易に改正するべきではない。改憲はそういう短絡的な思考で実行するものではなく、より高次の倫理から評価して実行するべきものと考える必要がある。政界で改憲派、特に96条改正を梃子にして9条改正を目指す者たちが勢力を伸ばし、それに同調する者が増えている現在、憲法記念日に、このことをよく考えてみて欲しい。


(H25/5/3記)


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