☆ 国家と市民 〜保証か自己責任か〜 ☆

井出薫

 全ての市民は自由で幸福な生活をする権利がある。国家はそれを守る義務がある。これは日本国憲法にも明記された現代民主国家の大原則だ。しかし、国家が保証すべき範囲と、個人の自主的判断による自己責任の範囲との境界線をどこに引くかは難しい問題となる。

 昨年、省令が改正され、生の牛レバー(以下、「レバー」という。)の販売が禁止された。これには異論も多い。確かにレバーには食中毒の危険性がある。しかし実際に食中毒を起こす確率は高くない。死亡例もあるがその数は少ない。危険性があることを行政が十分に広報したうえで、消費者の自己責任で食べるか食べないかを決めることにし、飲食店には客が(コース料理などで他の食品に紛れて)知らない間にレバーを食べることがないように説明責任を課す。禁止するのではなく、こういう緩やかな規制方法もある。つまり、ここには、(市民の自由の制約を伴う)国家の安全保証と、市民の自主性を尊重した自己責任と、どちらを取るかという問題が存在する。

 1月11日、薬のインターネット販売を禁じた厚生労働省令(平成21年6月施行)が、最高裁判決で無効とされた。省令は、薬物に関して科学的な知識を有する薬剤師が患者と対面することもなく、患者が容易に薬を手に入れることの危険性を考慮したもので、それ自体が明らかに違法だったとは言えない。しかし、まさにここでも、国家による保証か、自己責任か、という問題が現れている。

 日本社会は、総じて、国家(主として行政)に厳重な管理監督責任、規制を求める傾向が強い。その結果、日本は、安全性は高いが、行政の力が肥大化し、市民の自主的判断や活動が阻害される構造になっている。それを反映してか、諸外国と比較して市民運動やボランティア活動が低調であることは否めない。また、論理の飛躍かもしれないが、グローバル市場での競争力低下の背景にも国家による規制に頼る日本人の気質が影響しているとも考えられる。

 膨大な商品が店頭やネットに並ぶ現代、消費者が全て自己責任で商品の(リスクを考慮したうえでの)合理的選択を行うことは難しい。それゆえ規制撤廃又は緩和すればよいというものではない。違法行為防止も市民の力だけでは難しい。それゆえ、規制を通じた国家の保証も、市民の自主性を重んじる自己責任も、その両方が必要であることは言うまでもない。しかし、現代日本の状況をみるとき、将来のより良き発展のためには、規制による国家保証(パターナリズム)よりも、情報公開の徹底と市民の自主的判断を重視する方向(医療で普及している「インフォームド・コンセント」型)へと軸足を移動させることが必要と思われる。


(H25/1/13記)


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