☆ 「いじめ」の定義 ☆

井出薫

 教育現場での「いじめ」の定義は、対象を拡大する方向で幾度か変更されてきた。しかし現行の定義でも「精神的な苦痛」という主観的な概念が必須の要件とされ、依然として「いじめ」は主観的な問題であるとみなされている。

 確かに、多少は乱暴な行為でも、それを一々「いじめ」と捉えていたのでは限がない。また、「いじめ」の概念を必要以上に拡大すると、却って、生徒間、生徒と教師の交流を阻害することになる。セクハラでも同じことが言えよう。それゆえ主観が重視されることは間違いではない。

 しかし、「苦痛」を感じているか否かは外部からは容易に判断できない。自分の意志や感情をはっきりと主張する生徒ならば、主観はすぐに客観化し、いじめの認知は容易になる。しかしそういう生徒ばかりではなく、寧ろ、自尊心や、周囲との軋轢を回避したいという感情から、容易にそれを口にしたり行動に表したりしない生徒の方が多い。「いじめられていないか。困っていることがあったらいつでも相談に来なさい」と教師にやさしく尋ねられても、いじめを受けているにも拘わらず「いじめられていない」と返答してしまう生徒もいる。また、外に向かって救いを求めるサインを出していても、それが微弱で周囲が気付かない場合もある。

 また、本当に、主観的な定義だけで良いのかという問題がある。本人は苦痛を感じていないが、同じ立場に置かれたら多くの者は苦痛を感じるはずだ、という状況は十分にありえる。そのとき本人が苦痛を感じていないことを理由に「いじめ」ではないと判断してよいのだろうか。「痛みがあるが、本人は痛みを感じていない」という表現は意味がない。「痛み」は本人が意識するか、しないかでその存在の有無が決まる主観的な概念だからだ。同じように、本人が苦痛でないならば、客観的にみて暴行(故意に他人の身体・精神に著しい損傷を与える行為)が見当たらない限り、そこにはいじめはないと見るべきだと考えられている。だが、苦痛は本人が意識しないレベルでの精神的な損傷が蓄積して、ある日突然現実の苦痛として現れることがある。様々な精神疾患、たとえばうつ病やパニック障害なども、本人が気づかないうちに解消されないストレスが蓄積し突然発病することがある。いや、それが寧ろ普通だ。だから、同じ行為が繰り返されていて、ある日突然、それが本人にとって耐えがたい苦痛として現れることがありえる。その苦痛は突然であるがゆえに却って本人には耐えがたく、かつ、周囲に助けを求める間もなく深刻化する。いじめをしている側も、相手の変化に気が付き反省し行動を改めればよいが、逆に、よりいじめがエスカレートすることもある。このような場合、本人が苦痛を認知してからでは手遅れになる。

 このことを考慮すれば、本人が苦痛を感じていない段階から予防的な措置が施されることが望ましい。ただ、ある程度の年齢を超えたら、児童のプライバシーを尊重し、無闇と大人が介入しない方がよいという教育上の配慮が不可欠で、予防的措置との兼ね合いが難しい。

 それでも、いじめ問題のよりよい解決には、主観的な基準だけではなく客観的な基準が必要と思われる。事実、明文化されていなくとも、第3者の申告、言動の変化などに注意して適宜指導する、相談にのる、教師間での連携を強化する、カウンセラーを活用するなどの対策が現場では講じられている。しかし、現状では、様々な事例、それへの対応と結果(成功事例だけではなく、失敗事例を含む)が整理、体系化されておらず、教育機関、行政、家庭、地域社会で情報共有が十分になされていない。そのため折角、参考となる事例があっても、それがいじめ問題解決に十分に役立っていない。メディアも、興味本位の報道、特定の者への集中攻撃に終始し、解決方法の提唱のような前向きの取り組みは少ない。

 いじめはゼロになることはない。しかし、より多くの児童が楽しい学校生活を送ることができ、それが生涯心の支えとなるような環境を構築することはできる。その成果は教育現場だけではなく、広く社会全般に役立つ。そのためには教師や家族だけではなく、行政、医療関係者、メンタルヘルスケアの専門家、地域社会、報道機関などが協力して、緩やかだが客観的な基準と(処罰的なものとならないような)対処策を作り、それを活用して個別具体的な事象に対処していく必要がある。哲学者のデューイは「哲学とは教育の一般理論だ」と述べている。客観的な基準も、多様な人々の協力も、様々な取り組みも、一貫した思想の下で整理・体系化、データベース化して共有財産として活用できないと意義は乏しい。そのためには、難渋なものではなく、誰でもが理解できる思想としての哲学が必要となる。そのことも忘れないでおきたい。


(H24/12/2記)


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