井出薫
小沢率いる「生活」、維新の会、石原新党と新党が賑やかだか、いずれも保守系で革新系が見当たらない。民主党も保守系議員が多く革新と呼ぶにはほど遠く、中道右派という立ち位置になる。こうしてみると、今や、革新と言える党は共産党と社民党しかなく、両党合わせても議席の1割にも満たない。数年前、日本のプロレタリア文学の代表作、小林多喜二の「蟹工船」がヒットし、マルクス「資本論」の解説書が多数出版され一寸したブームになったが、それが政治の世界に反映されることはなかった。 昨今の世論調査を見る限り、自民党が政権の座に復帰する可能性が高い。そうなれば安倍晋三が再び首相に就任し、憲法第9条改正に動き出すことが予想される。これまで自民党は一貫して憲法第9条改正を党方針としてきたが、世論の反発が強く、それを政策の前面に押し出すことはなかった。しかし世論の風向きもだいぶ変わってきた。40年前、筆者が学生の頃は、第9条改正に賛成する者は2割にも満たなかったと記憶しているが、昨今は(保守系メディアの調査ではあるが)賛成派と反対派が拮抗している。おそらく、国民投票をすれば第9条改正は否決されると信じるが、以前ほどそれに確信を持つことができない。憲法第9条を尊重する革新系の政党、政治家、言論人がしっかりとその意義を伝えていかないと改正が現実のものとなりかねない。 所得格差、資産格差が拡大している。格差の拡大が事実か疑問を呈する向きもあるが、政府の統計資料や、身近な環境を見る限り格差拡大は明白な事実だと判断しない訳にはいかない。収入が少なく今後の伸びも期待できないから結婚は無理だと諦めている非正規社員がいる。生活保護受給者数が200万人を超えた。生活保護の不正受給が時折話題になるが、その背景にあるのは貧富の格差拡大であり、不正受給で問題の本質を隠蔽してはならない。 この日本の現況を考えれば、革新政党が台頭してもおかしくない。ところが、ご覧のとおり、話題をさらっているのは保守ばかりで、それも反動的とも言える極めて保守色の強い者たちが目立つ。これは、そういう者たちをちやほやするメディアの体質に起因するところもあるが、革新政党や革新思想の持ち主たちの硬直した態度にも責任がある。 本稿でも保守と革新という図式を使っているが、これはある意味では便宜的なものでしかない。ある環境下では保守とみなされる者が別の環境では革新とみなされる。「正義論」のロールズは、筋金入りの共産主義者からすれば保守の一亜種に過ぎず、筋金入りの保守主義者からすれば革新・左翼に分類される。そして、何より忘れてはならないことは、革新であろうと保守であろうと、対峙すべき現実は一つだということだ。保守と革新で同じ現実でも解釈は異なる。保守には許容範囲内とみなされる格差も、革新には許容範囲を超えていると判定される。しかし、それでも「今ここに在る」現実世界は一つしかない。貧困に喘いでいる者、精神を病んでいる者は、現実に苦しんでいる。周囲から、それをどう解釈するかには自由度があるが、現実はただ一つ。解釈の多義性は現実の一義性を否定しない。 そのことを知れば、革新派がなすべきことが明らかになる。現在、革新派は劣勢に陥っている。多くの市民から、非現実な理想を語るだけの夢想的な集団、中国や韓国、北朝鮮など近隣諸国にやたらと気を遣い日本の立場を主張しない、それどころか日本の悪口を言う集団とみなされている。それでは支持が拡がらないのは当然で、この現実をしっかりと見据えて活動することが必要になる。 これまで革新も保守も、意見の異なる者たちと冷静に討議し、相手の言葉を傾聴しながら同時に自分たちの主張の正当性を合理的に論証し市民の支持を得るという姿勢に欠けていた。互いに、レッテルを貼りあい、端から相手を悪又は誤りと決め付け断罪した。その結果、市民はただ感覚的、感情的な判断で良し悪しを決めるしかなかった。そして、理由はどうあれ革新は敗北した。革新派はこの現実から出発する必要がある。 今でも共産党など革新は「民自公の政策は弱者切り捨てだ」という類の「帰結」から議論に入る。そうではなく、「民自公の政策は、これこれである。そのような政策では、これこれの理由で、こういう好ましくない状態が生じることが予想される。それに対して、どういう対策を用意しているのか。」と質問し、それに対して自らの対案を提示して相手の意見を求める。そして相手の意見(反論又は賛同)に対して再びこちら側の見解を示す。手間は掛かるがこういう弁証法的な手法で自らの見解を練り上げていき、その正当性を相手側に示していく。並行して一般市民とも同じような討議を進める。支持者以上に批判者の声に真摯に耳を傾け、改めるべきところは改め、相手が正しいと思える場合はそれを素直に認め自らの思想と政策さらには運動方針の見直しに活用する。こういう開かれた姿勢が何よりも重要になる。これは、先に述べたとおり、保守と革新の境界は相対的・流動的であること、現実は一つであることを理解すれば必然的に導かれる。 共産党も社民党も、さらには左翼、革新系の言論や報道も、一般市民から独善的、綺麗事だけで現実を直視しない者と評価されることが多い。そしてその評価が正解であることも少なくない。この現実と向き合い、政敵や論敵、様々な考えを持つ市民と広く対話を通じて交流を深め、支持を広げる努力をする。これを実行していけば、必ず人々の支持は集まってくる。なぜなら今ほど左翼的な革新思想が必要とされる時はないからだ。蟹工船やマルクス資本論が注目を浴びたのは偶然ではない。それは現代人の行き場のない深い不安感とその不安感をもたらす現実が確かに存在することを象徴している。だが従前からの遣り方を続けていくだけであれば、革新の命日は間近い。それは日本にとって大きな不幸になる。福島県の原発事故はかつての反原発運動が正当性を有するものだったことを示したが、革新の退潮の煽りを受けて事故が起きるまでほとんど日本社会を動かすことができなかった。それが事故に繋がる要因の一つだったことは否定しようもない。ここで革新の命脈が尽きたら再び多くの不幸が到来する。だが、そうなったとき責任は保守やそれを選択した市民にあると逃げることはできない。現実的で合理的な行動を取らなかった左翼、革新にも大きな責任があることになる。現実と現実的に対峙すること、それが今革新に求められている。 了
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