井出薫
裁判員制度、教育委員会、様々な組織に参加する一般人に期待されることは「市民感覚」を司法や行政に反映させることだと言われる。しかし「市民感覚」とはそもそも何なのか。少なくとも二つの点を明確にする必要がある。 市民感覚は庶民感覚とは違う。庶民感覚とは「最近、野菜が高くて困っている」、「女子サッカーの活躍は凄い、試合を観るのが楽しみだ」こういう感覚を言う。庶民とは多数の人間からなる集団を意味するが、庶民感覚とは基本的に私的な感覚や私的な利害が積み重なったもので、公共的な意義は乏しい。もちろん庶民感覚を軽視して良いということではない。庶民感覚を政治家や官僚が理解し政策立案・実行に活かすことはとても大切だ。特に困窮者の叫びは決して無視してはいけない。しかし裁判員や教育委員として振る舞う時には庶民感覚だけでは役立たない。自己の利害得失を超えた理念に基づく思考と判断があって初めて公的な役割を果たすことができる。「悪天候による世界的食糧不足の下、食料品の価格上昇はある程度はやむを得ない。しかし、低所得者層、高齢や病気で収入が得ることが困難な者の困窮に政治は十分な配慮が必要だ。」、「一般庶民が食料品高騰で生活に苦労しているときに、一部の特権階級はコネを使って低価格で高級食材を簡単に手に入れることができる。これは社会的公正に反する。当局はなぜこのようなことが起きるのか調査し改善する必要がある。」こういうのが市民感覚だ。その土台には私的な庶民感覚がある。しかし理念と理性がそこに加わることで初めて市民感覚になる。市民感覚は良識と言い換えてもよい。デカルトは、良識は誰にでも備わっていると言った。しかし政治家は選挙のために、官僚や知的エリートたちは既得権益や虚栄心のために、メディアは企業利益のために良識を見失いやすい。だから一般市民が良識を政治に持ち込む必要がある。それが政治に市民感覚を取り入れることの意義なのだ。 市民感覚は本質的に複数性を有する。自己責任を重視し国家が市民生活に干渉するべきではないとする意見もあれば、公平と人権の保護のために国家の役割を重視する意見もある。90年代のソ連・東欧の共産主義国家崩壊と中国の市場開放以来、「共産主義か資本主義か」という社会体制選択と関わる根本的な意見対立は小さくなったが、経済、外交、福祉、教育、環境、資源など多くの分野で市民の間で意見の相違は大きい。しかも、民主制と人権擁護のためには、意見の相違が存在することが寧ろ望ましい。小沢一郎という人物が政治家としての優れた力量とそれなりの見識を持ちながら、多くの市民から敬遠されるのは、自らの意見に同意しない者を排除しようとする独裁者的体質が漂っているからだ。市民感覚は決して一つではありえないし、寧ろ一つではないところに良さがある。市民感覚が一つであるならばそんなものを殊更政治に取り入れる必要はない。すでに政治に織り込まれているはずだからだ。 「市民感覚」、「世論」、こういう言葉で自らの見解を正当化しようとする者が多数存在する。しかし、市民感覚と庶民感覚の違い、市民感覚の複数性に留意しておかないと、大衆迎合政治=衆愚政治に陥るか、その反動で独裁へと転落する。そのことを肝に銘じておきたい。 了
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