☆ 死刑制度の議論を ☆

井出薫

 先日、死刑が執行された。しかし死刑の是非に関する議論が進まない。進まない理由ははっきりしている。報道が自らの意見を表明し議論を促すことを避けているからだ。

 一部の報道機関は死刑執行を暗に非難する論評を掲げた。しかし正面切って死刑廃止を訴えることを避けた。社内でも意見が一致していないのだろうが、もっとはっきりと意見を表明するべきだ。これでは、不偏不党を錦の御旗にして逃げているとしか言いようがない。

 米中という世界の二大超大国では死刑制度が存続している。特に中国の死刑執行数は人口が多いとは言え日本とは比較にならないほど多い。中国に次ぐ人口を有するインドでも死刑は存在する。中東諸国でも多くの国で死刑が存続している。死刑を廃止した国が過半数を占めると言っても、人口比では死刑が存続している地域の方が多い。それゆえ単純に死刑廃止が世界の大勢とは言えない。

 日本では死刑を宣告される者のほとんどは許し難い罪を犯している。もし犯行当時、警察官が現場に居あわせ、警察官が被害者の生命を守るために、(他に方法がない場合)犯人を射殺したとしても正当防衛と認められる。それは死刑廃止国を含めて世界中で認められている。その意味では、死刑囚は裁判を受ける権利を得られただけでも幸運だったと言える。そして被害者はその対極に位置する。それを考えれば死刑存続論を端から誤りだと決めつけることはできない。

 しかし、それでも死刑廃止の方向で議論を進めるべきだと考える。日本の治安は良く、人々の殺人者に対する怒りや嫌悪感は極めて強い。それが逆に死刑存続論を支持する理由になっている。正当な理由もなく人を殺すような者は決して許してはならないという強い正義感がそこにはある。だが逆に言えば、この事実は、日本で死刑制度を廃止しても凶悪犯罪が増加する可能性はないことを示唆する。

 理不尽な暴力を他人に加える者は、現場で被害者の救助にきた警察官に撃たれたり、被害者に逆襲されたりして命を落としても自業自得だ。しかし逮捕され他人に危害を加えることができなくなった状況にある人間の命を奪うことに正当性があるとは思えない。執行方法を工夫しても死刑はやはり残酷な刑と言わざるを得ない。

 人間が裁く以上、冤罪の危険性をゼロにはできない。多数の目撃者がおり事実関係で争う余地がない事件でも、心神喪失状態や情状酌量すべき事情の見落としの可能性は残る。死刑執行後にそれが判明したら取り返しが付かない。

 被害者遺族の処罰感情が死刑廃止反対論の論拠として挙げられることがある。しかし遺族の処罰感情を斟酌していたら厖大な数の死刑囚を生むことになる。被告が死刑にならなかったことで憤っている遺族は今でも多数存在する。さらに極論を言えば同じ犯罪でも遺族がいなければ刑を軽くして良いことになるが不合理だ。死刑存続の根拠として遺族の感情を持ちだすことには無理がある。

 被害者遺族の感情以外にも様々な異論があることは承知している。しかし死刑廃止国が増えていることも考慮して、死刑廃止に向けた第一歩を踏み出すときが来ていると思う。裁判員制度は、ある意味、死刑を市民に身近なものとした。裁判員の声を聞く限り、死刑を宣告することに強い不安感があることが分かる。たとえ許し難い罪を犯した者でも死を与えることが本当に正当なことなのか、冤罪の可能性はないのか、という点で逡巡する者がほとんどだと思う。

 死刑制度からいつまでも目を逸らしている訳にはいかない。そして議論を促すには立場の表明を含めた報道の積極的な関与が欠かせない。死刑制度存続支持者が多い中、死刑廃止を正面から主張することは勇気がいる。報道と言っても、NHKを除けば私企業で、死刑廃止論を前面に掲げることで、読者、視聴者の反感を呼び収益が減ることが怖いかもしれない。しかし私企業としての利益を超えて真実を探究し社会に貢献することが報道の使命ではないか。第4の権力と呼ばれるほど報道には力がある。報道記者は政治家や官僚だけではなく企業からも恐れられ一目置かれている。大手報道機関の記者の収入は一般民間企業の従業員のそれよりも遥かに高い。報道機関は、勇気と高い志を持ち、批判や反発を恐れず、死刑制度の是非について徹底的に議論する必要がある。


(H24/4/1記)


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