☆ 情報化社会 ☆

井出薫

 米国の大手出版社マグロウヒルの子会社、スタンダード&プアーズ社(S&P)の格付けが新聞の一面トップを賑わせ、世界を一喜一憂させている。フランスの財務大臣がわざわざ声明を出さなくてはならないのだから、その影響力が窺い知れる。我らが日本の領袖、野田首相の影響力とは桁違いだ。実際、良くも悪くもグローバル経済の重要なプレイヤーの一員である日本の市民にとって、S&Pの格付けは首相の言動に劣らぬ影響がある。しかも相手が首相ならば、市民は、選挙や支持率を通じて一定の影響を与えることができるが、S&Pの格付けには如何なる影響力も行使できないのだから恐ろしい。

 それにしても、(こう言っては失礼だが)たかが一出版社の子会社の発表が世界経済に巨大なインパクトを与えるのだから驚きだ。これは情報化社会の象徴とも言える。情報の本質の一つは、小さな力で巨大なものを制御することができるという点にある。だから、一出版社の子会社が世界経済を大きく動かすということはありえる。しかしそういう動きは80年代までは限定的だった。巨大なものを動かすのは、巨大な政府と軍隊、国際的な大企業、それらと密接なコネクションを持つメディア、こういう巨大な組織に限られていた。一個人や小さな組織が世界を動かすには、大衆を動員して巨大な力にする以外方法はなかった。それが90年代に始まるインターネットとモバイルの普及を土台とする情報化社会の到来で状況が一変する。世界を制御する者が、強大な軍備を誇る国家、世界経済をリードする多国籍企業、大衆を動員する反体制運動、伝統的なメディアなどから、的確な(正確に言えば、的確だと人々が信じる)情報を提供する者へと移行しつつある。勿論、今でも、国家や多国籍企業、大衆運動の力は強大で、それを伝えるメディアの影響力も大きい。それでも、そういった伝統的な力の源泉に陰りが見えるのは間違いない。情報化社会においては、組織は小さくとも、正確でインパクトある情報を提供する者は巨大な影響力を行使することができる。

 このことの是非を論じるつもりはない。S&Pやムーディーズなどの有力格付け会社の信頼性には常々疑問が投げかけられているし、情報だけで世界が変えられる訳ではない。人は生身の身体を持ち、生きるためには情報だけではなく物が必要になる。だから情報収集・分析力と情報発信力だけでは限界がある。しかし、そうではあっても、その影響が不断に高まりつつあることは事実で、その潮流が反転することは考えられない。中東の革命は情報通信技術の普及抜きには語ることができない。だから独裁的な政治体制を敷く国が情報ネットワークに強い警戒心を持つのも頷ける。しかし、そういう国でももはや情報を完全に制御することはできず、ネットを流れる市民の声に耳を傾けながら体制を維持していくことを余儀なくされている。もはや物理的な力だけで世界を支配することはできない。

 将棋ソフト「ボンクラーズ」が早指し将棋だけではなく、持ち時間3時間の本番でも米長永世棋聖に勝利した。情報通信技術の進歩は目覚ましい。コンピュータは高速で精確だができることなどたかが知れていると侮る訳にはいかなくなった。進歩したコンピュータに高速大容量のインターネットとモバイルが付け加わったのだから、その力は測り知れない。勿論それを生み出し利用しているのは人間だ。しかし人間は常に自分が生み出したものに振舞わされてきた。情報通信だけではなく、原子力発電もその一例と言えよう。若き日のマルクスはそれを「疎外」と呼び批判した。しかし後にマルクスはその考えを放棄する。(人間が生み出す)生産力こそが人間社会を規定する。これがマルクスの最終的な結論だった。そしてマルクスの結論は正しい。私たちは情報化社会の中で、情報通信技術に、そしてそこに流される情報に翻弄されながら生きていく。

 それは必ずしも悪いことではない。人はどのような社会であろうと、自分のことを全て自分で決められる訳ではなく、ほとんどのことは環境に左右され受動的に決まってしまう。情報通信技術やそこに流れる(人間ではなくコンピュータが作り出すこともある)情報に強く影響されるからと言って、人間の尊厳が損なわれる訳ではない。寧ろより合理的な行動ができるようになる可能性もある。またコンピュータが介在することで人と人との絆が破壊される訳でもない。コンピュータの介在は人と人の距離を遠くすることもあるが近くすることもある。

 ただ、翻弄される運命にあるとしても、完全に受動的に支配されるようでは、人間であることを放棄したに等しくなる。そうならないためには、ただ賛美したり脅威に感じたりするのではなく、この躍進する技術とその影響の本質を見抜くことが大切になる。そのためには、子どもの頃から、コンピュータやネットワークの操作技術を習得するだけではなく、その技術と影響の本質を深く掘り下げる精神を涵養する必要がある。それに成功した時、情報化社会は、実りの多い明るみ未来を約束するものとなる。


(H24/1/15記)


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