☆ 左翼はどこに行く(言論編) ☆

井出薫

 政界や労働界だけではなく、言論界でも左翼は元気がない。
 30年前、左翼は光り輝いていた。筆者も孤高のマルクス主義者(故)廣松渉氏の物象化論を軸としたマルクス解釈に大いに感銘を受けたものだった。他にも、吉本隆明氏、小田実氏、三浦つとむ氏、宇野弘蔵学派の経済学者など錚々たる左翼系知識人が日本の言論界に君臨していた。書店に行けば、マルクス、エンゲルス、レーニンの著作が平積みされて、多くの者の目を惹いていた。当時は、保守系あるいは右翼系知識人は専ら左翼知識人を批判することで辛うじて存在意義を得ていたという状況だった。

 だが、時代は変わった。現代の言論界は、ニーチェ思想の強い影響下にあるポストモダニズムに席巻されており、伝統的な左翼の影は薄い。いまや影響力のある左翼と言えるのは、上野千鶴子氏など一部フェミニズムの思想家だけだろう。書店を覗いても、マルクス主義関係の著作が揃っているのは大規模書店や専門店に限られている。大月書店のマルクス・エンゲルス全集は絶版となり復刻の予定はない。辛うじてCD−ROM版があるが、値段が高く、買う人はほとんどいないだろう。

 左翼言論人の多くが、古くからの原理・原則に固執して、国内外の情勢変化に対応することができなかった。ソ連・東欧の共産政権の崩壊や中国の市場開放・改革路線など左翼勢力を巡る大きな変革の波をどのように捉えるべきなのか、新しい状況で如何にして新しい思想を生み出し、それを現実化していくのか、こういう重要な課題に何の解答も与えることができなかった。これでは影響力が衰えるのも無理はない。
 左翼思想や言論は、歴史的な使命を終え、博物館に陳列するくらいの価値しかないものとなってしまったのだろうか。

 左翼思想に代わって台頭したポストモダニズムには様々な立場があり、一言で右翼だ左翼だ中間派だなどと決め付けることはできない。そもそも、右翼対左翼などという二項対立図式で物を見ることを悪しきドグマであると考えるのがポストモダニズムだ。
 だが、社会主義運動を弱者のルサンチマンに過ぎないとみるニーチェ的な発想に強く影響されているポストモダニストは、総じて言えば、政治的には保守的立場に接近する。ポストモダニズム的な思想が保守勢力に抵抗する力となるとは考えにくい。ポストモダニストと呼ばれる人が反政府的な評論や意見を表明するとき、自分の思想に忠実であるよりは、むしろ古典的な左翼思想を援用している。ポストモダニズムの旗手の一人浅田彰氏は、アフガニスタン攻撃のときには反戦的な立場を明確に打ち出したが、イラク戦争のときには曖昧な態度に終始した。浅田氏の思想的立場からすれば、反戦思想や人道的な観点からアメリカを批判することも、逆に、秩序の維持という大義の下にアメリカを支持することも、いずれも、古臭いモダニズム的思考方法に過ぎないということになる。浅田氏は、アフガニスタンのときには、モダニズム的左翼にコミットしてしまったが、イラクでは自分の思想に忠実だったと言える。

 ポストモダニズムが体制批判の思想として有効に機能すると期待することはできない。従って、左翼思想の衰退は、体制への批判精神、懐疑精神の衰退に繋がる。

 国内外の保守思想と保守体制が諸問題を解決できるのであれば、体制批判の思想が消滅しても別に構わない。しかし、現実をみれば、保守思想や保守体制は、貧困、民族紛争、宗教対立、それらに起因する戦争、いずれも解決することに成功していない。
 近年、国内では、規制緩和と自由競争が日本に繁栄をもたらすと宣伝されている。しかし、自由競争が公平で豊かな社会を実現するためには、フェアプレイの精神と貧しい者・弱者・敗者への最大限の配慮、この二つが絶対条件だ。だが、現実の人間と社会を考えるとき、この二つの条件が満たされる可能性はごく小さい。

 保守に対抗する思想としての左翼思想を放棄するわけにはいかない。問題は、いかにして、現実社会に効果的に関与できる左翼思想と運動を復活させるかということだ。憲法擁護を声高に叫ぶだけでは駄目だ。根拠もなく社会民主主義は人類最高の思想的到達点などと言っても、誰も納得しない。
 環境、女性の権利、教育などの分野における具体的な課題への現実的な取組みが新しい思想と運動の足掛かりになるだろう。古い思想や行動様式にしがみつくのではなく、それを克服し、現実から出発することを目指さなくてはならない。

 左翼にそれができないのであれば、私たちは保守かポストモダニズムに期待するしかない。だが、左翼のいないところで保守やポストモダニズムに期待するのは危険な賭けだ。何せ歯止めがないのだから。

(H15/11/12記)


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