☆ 実りある原発論議を求める ☆

井出薫

 書店に行き、反原発派の主張を幾つか斜め読みした。正直残念だ。私自身が反原発派に近い立場にあることも手伝い、その主張には大いに共鳴するところがある。しかし原発推進派や容認派を「犯罪的だ」などと形容し非難するところを目にすると、「まだ、これなのか」との思いが強くなる。

 原発は安全性、放射性廃棄物の処理、廃炉、鉱山労働者の被爆など多くの問題がある。これら諸問題は、以前にも述べたが、強い相互作用を利用する核エネルギーでは原理的に解決困難だ。だから、長期的にみて原発推進は賢明な策ではなく、現実的にもいずれ実現困難になる。

 しかしながら、短期的に見れば、原発の導入は一つの解であるし、日本のようにすでに原発に給電の相当部分を依存している国では簡単には廃止できない。反対派の議論は、現実の姿を見ておらず、原発の危険性や自然環境への巨大な負荷を観念化して、理念の世界で原発を批判するだけで、現実世界で稼働する(あるいは計画されている)現実の原発とそれがもたらしている(短期的な経済的メリットなど)利便性という視点が欠けている。

 元々、日本の反原発派は、国内での原発推進には猛烈に抗議してきたが、旧共産圏や発展途上国の原発は黙認してきたという歴史がある。特に近隣諸国に対しては戦前の侵略行為の後ろめたさも手伝ってか、批判することはほとんどなかった。今でも、その姿勢は余り変わっていない。

 政府と電力会社の原発推進派が、「絶対安全」などという理論的にありえないことをあたかも真実であるかのように吹聴し事故対策を怠ってきたこと、廃棄物の処理など難題を隠蔽してきた罪は大きい。しかし、そのことを以って、「原発推進=悪」と断定することは間違っている。たとえば急速な経済発展を必要とする貧しい発展途上国にとって、原発の導入が最も効率の良い方法であるということはありえる。事故がなければ短期的には原発の発電効率の良さは否定できない。発展途上国にとって、原油価格の長期的な高騰を考えれば原発という選択肢を否定する訳にはいかない。況やそれを犯罪的行為などと非難することが的外れであることは言うまでもない。そして米国、EU諸国、ロシア、中国、日本などが、その要望に応えることも悪魔の原発輸出などと言って批判する訳にはいかない。

 反原発派のほとんどは日本の原発に専ら攻撃対象を絞り込んでいるので、海外の問題特に発展途上国の問題については、自然エネルギー利用への協力などという曖昧な回答でお茶を濁しており、正面から原発利用を批判してはいない。しかしこれではダブルスタンダードだと非難されても致し方ない。日本、ドイツ、イタリアだけが原発を廃止しても、他の国で原発が急増したら何も意味はない。

 反原発派は、個別の問題点を指摘するという点では多くの正論を述べてきた。メディアを含めて、その声を真面目に取り上げてこなかったことが今回の事故を招き、過剰な原発依存体質に繋がったと言ってもよい。しかし、原発容認、推進を全て悪であると断定する反原発派の硬直した態度が、推進派や容認派との真摯な討議の場を閉ざし、原発推進派を暴走させたことを忘れてはならない。端から原発建設推進を犯罪的行為だなどと決めつけられたら、議論は成立しない。推進派は反対派の声を黙殺し、安全神話を生みだした。勿論、その責任は第一義的には推進派並びにその言動に異論を唱えなかった報道や言論にある。しかし、その頑なな姿勢は、反対派の硬直した姿勢を反映したものだったという面も否定し難い。「事故確率はゼロではない」と正直に言えば、その誠実さを評価するのではなく、「自ら危険であることを認めた」として騒ぎ立て罵倒する。それが反対派の遣り方だった。その反動として、推進派は反対派を黙殺、さらには「やらせ事件」に代表されるような裏での反対派封じ込めへと向うことになる。それでも社共など革新が強かった時代は勢力が拮抗していたからまだよかった。しかし革新勢力の衰退で、反原発・脱原発の声は掻き消されてしまう。

 同じ過ちを繰り返さないように努める必要がある。そのために、両者が相手の立場に一定の理解を示し、なおかつ、自らの意見が絶対的なものではないことを認めて、真摯に討議を行いそれに市民が参加する必要がある。それに当たり、推進派と擁護派に一言言いたい。どんなに安全対策を取っても、絶対安全などということはありえない。精々言えることは「事故が起きる確率は天文学的に低い」ということくらいだ。ところが現実には天文学的に低い確率のはずの事故がごく普通に発生する。現実の施設や機械は設計図とは違い、理論通りには動作しない。また設計図そのものがあらゆる状況を想定して作成することができない。そこには考慮漏れが常に存在する。それゆえ「絶対安全がありえないこと」を認め、それを正直に市民に語り理解を得て、かつ、緊急事態を想定して事前に十分な対策を打っておく責務がある。一方で、反対派にも一言言いたい。原発が推進されてきた背景にあるのは、悪しきブルジョアイデオロギーや帝国主義だけではない。原子力の平和利用が世界の人々の幸福に繋がるという期待もあった。少なくとも今でも一部の発展途上国では短期的には原発導入が良い政策でありえる。そのことを認め、推進派の立場にも一定の理解を示すことが必要だ。そして理解をしたうえで、原発の問題の大きさ、解決困難性をしっかりと説明し、できることならば対案を提示して議論を進めたい。

 いつまでもイデオロギーに支配された不毛な論争を続けていたのでは埒があかない。今は原発事故の影響の大きさで人々の心は脱原発に動かされている、しかし、暫くすれば、容認派や推進派が、経済の活性化という大義名分の下で息を吹き返して反対派を圧倒することになる。それを防ぐためにも、推進派、反対派双方、特に反対派が、広い視野と度量を持ち、相手に歩み寄ることが欠かせない。


(H23/7/31記)


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