井出薫
地元校友会の会長が来訪、「校友会を開催するからご出席をお願いします」という案内があった。わざわざ足を運んでくれたのだから、邪険にする訳にも行かず、「検討します」と言って引き取ってもらった。 母校にはそれなりの思いはある。それでも、すでに卒業から32年、記憶は薄れ、校友よりも、社会人になってからの友人の方が交わりはずっと深く、積極的に校友会に参加しようという気にはならない。大学院修士課程卒業という肩書は正直大いに役立ち、この歳まで、生活に困ることもなく過ごしてくることができた。才能もなければ、努力もしていないのに、平均的な暮らしができるのも、母校の卒業証書と就職支援の賜物だ。本当のところは、母校に向って足を向けて寝られないというところなのだが、そこは多額の学費を払い卒業後もときどき寄付をしているのだから恩は返しているということにしている。 しかし、日本社会の中核を担う人材育成と研究機関としての実績が際立つ東大や京大ならいざしらず、「大学」の存在意義は揺らいでいる。医学系や理工学系などは、大規模な実験や実習のために特別な場所が欠かせない。しかし、もはや、それが大学である必然性はない。理化学研究所のような実績ある研究機関や病院が、企業や一般から実習生を募り大学・大学院相当の教育を施すことで人材育成を図ることができる。その方が、大学よりも寧ろ良い環境で人材育成ができ、日本の将来にとっても好ましい結果が得られる。文科系では、ほとんど大学の意味はない。ネットの情報や書店に平積みされている分かりやすい教科書で自習すれば、十分に大学卒業程度の教養を身につけることができる。研究論文を書くためには仲間や指導者がいた方が良いが、これも何も大学でなくてもよい。個別のサークルを作ってそこで切磋琢磨することができる。この面では、ソーシャルネットワークサービスや電子書籍が大いに力を発揮してくれる。 大学は絶対に必要だと思っている者は今でも少なくないが、幻想に過ぎない。長い人生を有意義に過ごすために、また良き社会人になるために、大学で4年間を過ごすことが本当に意義あることなのかどうか、自分を例に引いて見つめ直しても、肯定的な答えが出てこない。工業高校を卒業後、20年間会社勤めをして、今では地元で立派な弁護士になっている友人がいるが、大学を出ていないことは彼にとって何のハンデにもなっていない。では、大学は社会を良くするために貢献しているだろうか。一部大学を除けば、こちらもかなり疑わしい。いや、はっきり言って貢献していない。 「大学」という制度を抜本的に改革すべきときが来ている。大学という制度は、国家公務員のキャリア・ノンキャリアというシステムと繋がりがある。キャリア制度が旧態依然のものであり、今や弊害の方が大きいことは今や誰の目にも明らかだろう。それに並行して、大学という制度も弊害の方が大きくなっており、解体のときを迎えている。大学を解体して、職業訓練機関、ネットや放送と連動した移動型の教育機関、地元密着型の教育機関、生涯教育のための機関、様々な形態の新しいシステムを作ることで、より柔軟で、ICT+長寿社会に相応しい教育・研究体制が実現できる。大学当局も様々な取り組みをしているが、保身が先に立ち、寧ろ、その阻害要因となっている。古い物は所詮消え去る運命なのだ。 箱根駅伝で母校の選手たちが走るのをみると心が躍る。母校がなくなればやはり寂しい。しかし、今のままの大学では存在意義はない。大学自らの手で、できることなら我が母校がその先陣を切って大学制度の抜本的な改革に着手してもらいたい。 了
|