☆ 無縁社会からの脱却 ☆

井出薫

 独身で兄弟もいない者として「無縁社会」という言葉は心に突き刺さる。たった一人の食卓で寂しく食事をする自分の姿が目に浮かぶ。そう遠くない将来、それが現実になる。

 大企業でそれ相応の地位まで昇進し、定年後は企業年金と厚生年金、そして貯蓄で不自由なく暮らせるのに再就職する先輩たちを見て不思議に思っていた。だが、この歳になって理由が分かったような気がする。それは、退職して社会との繋がりが失われることに不安があるからだ。たとえ給与が定年前より大幅に減り、年金支給額が減額されても、働くことで、社会の中で自分が占める場所を確保できる。仕事が少々辛くとも昼食や夕食を共にする仲間が傍にいるのは心強い。

 これが日本の現実なのだが、如何にも寂しい。確かに、文句を言う割には仕事が嫌いではない。それなりに遣り甲斐を感じることも少なくない。それが(筆者を含む)多くの日本人の平均的な感覚だと思うが、それでも一生、組織に縛られて生きるしか術がないのは悲しい。幾ら人類という生物種が群れをなし群れの秩序に従って生きる動物だと言っても、文明を作り出したのだから、群居動物の宿命から脱出できなくては嘘だ。

 そうは言っても、お釈迦様でもない凡俗の者がたった一人で道を切り開くことなどできはしない。趣味を持っても仲間がいないと続かない。単独の登山は寿命を縮めるだけだ。組織や若い頃からの惰性を抜け出し、創造的で心身共に豊かな老後を迎えるには人々の連帯がなければならない。ところが今の日本はそれが全くできない状況にある。その最大の原因は東京を中心とする都会と地方の格差だ。

 都会は無数の人がいるが周囲は見知らぬ者ばかりで連帯がない。早朝の混雑時、ほぼ毎日同じ電車に乗っていても顔見知りになる者はいない。物理的な密度は高くとも、人々は精神的に孤立している。孤独は高齢者に限らず若者にも広がっている。ことにリストラされた独身者などは孤立の度を深める。人が多いことで却って自らの孤独が際立つ。楽しく集う者たちが無性に憎らしくなる。派遣切りされた若者が思わぬ事件を引き起こすことがあるが、都会の現実を見れば理解できないことではない。

 地方は人が減っており高齢化の進展も早い。都会と反対で人々は物理的に孤立している。そして物理的な孤立は精神的な孤独を必然的に引き起こす。ネットの活用が一つの対策だが、地方では進んでいないし、所詮ネットでの交流はバーチャルなものに過ぎず、それだけでは問題は解決できない。

 地方を豊かにし、都会への人の流れを逆転させ、日本のどこもが適当な人口密度を保ち、人々の実りある豊かな交流を生み出すことが無縁社会からの脱却のための抜本的解決策になる。では、どうすればよいのか。地方出身の若手社員が言う。「東京は物が豊かで、たまに遊びに来る分には楽しい場所だが、暮らしやすい場所ではない。本当は故郷に戻りたいが職場がない。」課題は地方に職場を作り出すことにある。

 そこで、東京など都会に本社や重要拠点を構える企業の法人税を高くし、地方に拠点を移した企業の法人税を大幅に安くしたらどうだろう。企業の地方移転が進み、地方に出資する外資が確実に増える。確かに懸念されることもある。一時的に建設業が活況を呈し産業構造を歪める危険性があること、環境破壊が全国に広がること、都会が廃墟化することなどが危惧される。しかし、それは移転のペースを調整することで回避できる。寧ろ、環境と調和した豊かな社会を確立する絶好の機会とも思える。

 勿論、容易ではないことは分かっている。経済界を中心に反対者が多いことも予想できる。しかし長年続けた仕事や組織を辞めた途端に、あるいはリストラされた瞬間に、人々が群れから追われた猿のように惨めな姿になるようでは、経済発展も技術進歩も意義が乏しいものとなる。無縁社会という現実の社会学的、歴史学的、哲学的意味を良く考えて大胆な施策を取るべきときだと思う。


(H23/2/20記)


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