☆ 哲学なき政治の限界 ☆

井出薫

 民主党政権に批判が集中している。しかし自民党が支持されている訳でもない。なぜ、こうなるのか。哲学なき政治の限界だ。

 民主党と共和党、米国の二大政党にははっきりとした哲学の違いがある。外交では対話を重視する民主党と力を強調する共和党、国内政治では政府の介入による低所得者層などの支援を重視する民主党と個人の責任を強調し政府の介入を極力排除する共和党、市民生活と文化では改革を重視する民主党と伝統を重視する共和党、現実的には二大政党の具体的な政策は似通ったものとなるとは言え、その根本的な哲学において両者には大きな違いがある。だから選挙民は、その都度の状況を睨みながらも、自分の思想信条に従い選択をすることができる。

 しかし日本では違う。社会党や市民運動出身者が多い民主党は自民党とは明確に違う哲学を打ち出すと期待していた。だが政治家一人一人の哲学は自民党政治家のそれとは違うかもしれないが、党としての哲学に自民党との違いが見出せない。だから民主党と自民党の対立はライバル企業の競争と大差がない。両党とも「みなさん、弊社の製品をただ今お買いになると大変にお得です。」と言って消費者の歓心を買うことに躍起になっているに等しい。政権交代の最大の成果は、そのことがはっきりしたことかもしれない。

 短期間の例外を除いて戦後一貫して政権を担ってきた自民党が哲学なき集団だったから、民主党が明確な違いを打ち出すことが難しいことは分かる。自民党は共産党的に言えば大資本のための政党となるが、経済界から選挙資金を受け取っているとは言え、政権基盤は裕福とは言えない地方特に農村部であり、どちらかと言うと大きな政府路線だった。旧社会党、公明党、共産党など他の政党も軒並み大きな政府路線であり財政健全化を本気で主張する政党はなかった。こういう状況の中で誕生した民主党が端から自民党と似通った体質になり哲学なき政党となるのも致し方ない面もある。

 だが、この状況を転換しなければ、政権交代はただ政治が混乱するだけの無意味な儀式になる。民主党と自民党には具体的な政策よりも先に根本的な哲学を確立しそれを明確に示してもらいたい。そうすれば、その哲学に共鳴する市民はただ政党に注文を付けるだけではなく積極的に協力することになる。逆にそれが出来なければ、政治への不信と失望は極限に達し、社会は混乱し、(皆、そんなことはありえないと高を括っているが)ファシズムが台頭する危険性すら生じる。


(H23/1/16記)


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