☆ 暴力装置 ☆

井出薫

 仙石官房長官の「自衛隊は暴力装置」という発言が波紋を広げた。災害時の救援活動などで国民に広く支持を受けている現在の自衛隊に政府首脳が「暴力」という言葉を使用するのは適切ではない。危険な任務を遂行する自衛隊員に対しても失礼だ。

 とは言え、仙石氏と同様に、左翼運動が盛り上がった60年代に青春を過ごし、左翼運動に共感していた者であれば、「暴力装置」という言葉に懐かしさを覚えるだろう。レーニンの主著の一つ「国家と革命」で、レーニンは国家とは支配階級のための暴力装置だと規定した。レーニンの国家論は革命運動を鼓舞するための戦略的主張に過ぎず、本格的な国家論の体をなすものではない。だがマックス・ウェーバーも国家という存在の重要な要件として暴力の独占を挙げており、国家に暴力装置的な側面があることは否定できない。そして、その代表が軍隊であり、日本では自衛隊ということになる。だから仙石官房長官の発言は政府首脳としては不適切だったが、一般論的には間違っているとは言えない。合憲か違憲かの議論が残るが、「合法的にその存在が容認されている暴力装置」と言えば自衛隊の本質を表現していると言えるだろう。

 それにしても仙石氏の発言が報道されたとき、すぐにレーニンの言葉を思い起こしたが、最近の若い人にはピンとこなかったに違いない。学生運動を中心に左翼運動が盛り上がったのは昭和30年代後半から40年代、今から40年も前のことになる。左翼運動の反動とも言うべき三島由紀夫の割腹自殺も40年前の出来事で、すでにその記憶も人々の意識から薄れている。

 時代は大きく変わった。人々の関心の対象は国家体制や国家組織などから、エコカーやスマートフォンなど市場を賑わす新商品に移った。「暴力装置」などという言葉を聞いても想像力を駆り立てられることはない。しかし、経済の発展と平和の継続で国家の役割が後退したとは言え、その存在は依然として巨大で市民生活に決定的な影響を及ぼす。自動車やテレビや携帯はその気になればいつでも捨てることができるが、よほどの覚悟が無いと日本という国籍を捨てることはできない。現在の日本でも国家が比類なき存在であることに変わりはない。

 「暴力」は否定的な言葉だが、それでも、国際政治、国家や社会の一つの重要な側面を表現している。その事実から目を逸らしている訳にはいかない。日本は幸いにも韓国と北朝鮮のような民族の南北分断という悲劇を免れているが、いつ同じような運命に遭遇するとも限らない。いや、日本の中でも、アイヌや琉球の流れを汲む人には侵略され併合された者の末裔という意識を持つ者がいるに違いない。今更レーニンを持ちだしても時代錯誤と呼ばれるだけだが、支配者としての「国家」やその中に具備されている「暴力装置」の存在が解消された訳ではない。時には、そのことの意味を考える必要があるのではないだろうか。


(H22/11/29記)


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