☆ 誰が事業仕分けをするべきなのか ☆

井出薫

 事業仕分け作業第3弾が始まったが、仕分け作業当初の期待は薄れ評判は芳しくない。

 政治家のパフォーマンスに過ぎないという批判を近頃よく耳にする。「なぜ2番では駄目なのか」という迷文句は喝采を浴びた。しかし問題は1番か2番かではなく、波及効果なども含めて開発に税金を投じることが、外国製品を購入するよりも有利かどうかであり、この言葉は政治家の能力不足を露呈したものでしかなかった。同じ類のことがあちらこちらで見受けられ、政治家に任せることが官僚に任せるよりも良いことなのか疑問が生じている。事実、実務経験と専門知識に乏しい政治家に査定をさせることには大きな危険が付き纏う。

 しかし事業仕分けが予算編成への国民の関心を喚起したことは大いに評価すべきで、自民党時代の官僚任せの予算編成に戻すことは阻止する必要がある。要は誰が中心となって仕分けをするかだ。

 政治家の能力不足は如何ともしがたい。政治家を選択する選挙民にも責任がある。どこからみても国家予算や法の制定を委ねるには力不足の人物に投票する有権者が後を絶たない。それゆえ政治家主導では駄目なことは明らかだ。

 では専門家の手に委ねるべきなのか。これも危ない。専門家は自分の専門分野を過大評価する。その結局予算獲得を巡って政治家や官僚と結託する専門家が現れ、その者の意見が通り、過大な予算が獲得されたり、必要な予算が削られたりする。専門家は山ほど居るが、広く公平な観点で物事を判断できる専門家はいない。

 ではジャーナリストや知識人と呼ばれる者たちが適任だろうか。理屈上はそういうことになるが現実は違う。総じてこういう者たちは、抽象的な理念ばかりで具体的な知識や実務経験に乏しく、具体的な課題に適切な判断が下せない。しかも自分の理念に固執して見解の異なる者に耳を貸さない。こういう者たちに選択を任せる訳にはいかない。参考資料に使うのが関の山だ。

 では国民投票で事業を選択し予算を付けたらどうだろう。誰もが感じる。「とんでもないことになる」と。国民は傲慢なこともあるが総じて謙虚なのだ。事実、最悪の選択をする危険性が高い。国民は知識が不足している上に、結果責任を負うことができないし、負う気もない。

 高い見識と広範に亘る深い専門知識を有し、結果責任を負う地位と覚悟を持つ者が仕分け作業をする。これがベストだ。だが、そういう者は存在しない。

 結局誰が仕分けをすれば良いのかという問いには答えがない。専門家や知識人、ジャーナリストたちが案を作り、政治家と官僚がそれを吟味し、最終的に国民の信を問うという仕組みが良さそうだが、膨大な時間が掛かる。しかも、選挙というシステム、有識者(と呼ばれる者たち)からなる審議会の答申を通じて法案を策定する官僚機構が、形式的にはすでにそういう仕組みを用意している。ところが、それが結局のところ官僚主導の政治を再生産してきた。

 「だからこそ小さな政府が良いのだ」と言う者も多い。そこでは仕分けなど必要なくなる。だが数多のバブルを経験した現代において、民間に、自由な市場に任せれば問題が解決するなどと信じるのは余りにも楽観的過ぎる。それこそ最悪の選択になる。

 誰が?どうすれば?こういう問いに答えはない。これが結論だ。この冴えない結論に耐え、試行錯誤しながら改善していく辛抱強さが何よりも求められている。だが、今の日本には、いや世界全ての国で、この辛抱強さが欠けているように思われる。そこが一番の問題だ。


(H22/10/31記)


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