☆ 最小不幸社会 ☆

井出薫

 菅新首相は「最小不幸社会」を目指すと宣言している。この言葉を聞くと、ロールズの「マキシ・ミン原則」(最も恵まれない人たちに最も手厚い保護を与える)を連想する。さらに功利主義の思想家ベンサムの「最大多数の最大幸福」も頭に浮かぶ。

 ベンサムの「最大多数の最大幸福」は菅首相やロールズの考えと同じように聞こえるかもしれないが実は大きく違う。ベンサムは「社会の成員全員の最大幸福」とは言っていない。不幸な者が存在することをベンサムは認める。しかしこれはベンサムを非難するには当たらない。どのような社会を実現しても不幸を一掃することはできない。幼くして両親と死に別れ、自らも重い病を患っている少年がいる。少年は不幸な運命にも拘わらず挫けることなくいつも明るく誰にでも優しく、そして将来を夢みて懸命に勉強し、体調が良いときは大人たちの仕事を助けて真面目に生きている。だが病気の進行が速く少年はどんどん衰弱していく。それでも他人に迷惑を掛ける訳にはいかないと心優しい少年はそれを隠して元気な振りをする。そして暫く姿を見ないと心配になった近所の人が尋ねると少年はすでに亡くなっていた。世俗的な目から見れば少年はとてつもなく不幸だ。だが人の世からこういう不幸がなくなることはない。私たちはただ少年が神から最高の祝福を受け、永遠の命と幸福を与えられていることを祈り信じることしかできない。人は遺伝子技術でクローンを作るくらいのことはできるが、天国と地獄は絶対的に神の領分で、人はただ祈り、望み、想像することしかできない。

 この世から不幸の種を取り除くことができない以上、より多くの者を幸福にするか、不幸な者を出来るだけ少なくするか、どちらを目標とするかで政治的選択が大きく変わってくる。菅首相はベンサムではなくロールズを選ぶ。これは間違った選択ではない。貧しい者が多い発展途上国では、最大多数の最大幸福を追求し、富の増大と近代化を優先させ、格差の拡大とそれに伴う不幸にはある程度目を瞑ることが必要になる。その方が、不幸な者に対して適切な行政的措置がなされれば、結果的に不幸な者の数を減らすことになる。中国は共産主義を旗印にしながら格差が拡大していると非難する者がいるが、GDP世界第2位になるとは言え、日本の10倍の人口を有することを考えれば未だ裕福な国になったとは言えない。中国が(明言されている訳ではないが)最大多数の最大幸福を選択したのは賢明な身の処し方だったと言える。一方、先進国では、環境や資源問題で明らかになったように持続可能な社会作りが重要で、人々の消費欲を煽るような政策は長期的にみて良策とは言えない。寧ろ最小不幸社会あるいはマキシ・ミン原則こそが望ましい。

 このように菅首相の宣言には共鳴するところが大なのだが、いささか不安が付き纏う。鳩山前首相も、「友愛」、「新しい公共」、「命を守る」というスローガンを掲げた。これは菅首相の最小不幸社会とほぼ共通する思想とみてよい。しかし鳩山前首相はほとんど何も実現できなかった。

 現在の日本は、国内では一朝一夕には解消できない巨額の財政赤字を抱えている。外交では東西冷戦の終結とともに存在意義を喪失した、いや喪失したとまで言えないにしても存在性格が大きく変容した日米安保を真剣に吟味することなく惰性で承認し続けたツケで、普天間基地問題のような混乱を招いている。こういう現実に対する現実的な改革なしには最小不幸社会は絵に描いた餅でしかない。つまり「友愛」、「新しい公共」、「命を守る」、「最小不幸」などという美辞麗句を並べても、それを実現するための土台が欠けているという現実に突き当たってしまう。菅首相も鳩山前首相もどちらかと言えば理念の政治家だと言えよう。そしてそれは悪いことではない。しかし政治家に何よりも求められているものは、現状がどうなっており、何が出来、何が出来ないのかを洞察し、それを基に適切な政策を立案し実行することだ。鳩山前首相はそれができなかった。果たして菅首相にそれができるだろうか。金と権力に絡んだ悪い噂が遥か以前から囁かれ、政治資金規正法違反事件では検察審査会から起訴が適当とまで宣告され、多くの敵に包囲されながら、なお未だに派閥の子分だけではなく一部報道や言論、そして一般市民の中にも小沢一郎に期待する声があるのは、こういう政治家にとって最も大切な資質と実行力を備えている政治家が今の日本には小沢しか見当たらないという思いがあるからに違いない。理念を大きな声で語ることもよい。しかし、菅首相には何よりも現実をしっかりと見つめ、政治家としての最も大切な仕事を着実に実行してもらいたい。そのとき初めて小沢に期待する声が雲散霧消するだろう。さもなければ、この先も長期に亘って小沢が政界の最高実力者として隠然たる権力を奮うことになる。正直そうなるような予感がしてならないのだが。


(H22/6/10記)


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