☆ 憲法と現実の距離 ☆

井出薫

 安部元首相が改憲論を提唱した時には、憲法論議が少しばかり盛り上がったが、このところ政権交代で改憲が遠のいたこともあり、今年も憲法記念日は話題になりそうもない。

 憲法への関心が薄れているのは、政治状況の変化もあるが、憲法と現実の距離が大きいことも影響している。憲法26条には義務教育は無償とあるが、公立学校でも学用品など教育に欠かせない多くの物品が無償ではない。判例六法を紐解くと、「同条項は教育に掛かる一切の費用を無償とすることを定めたものではない」とする最高裁の判例が掲載されているが、憲法の精神と不整合があるような気がする。貧しい者には学用品の負担もばかにはならない。こども手当ては26条から正当化されるのではないだろうか。

 憲法と現実の距離は、第9条「戦争の放棄」で最大化する。戦争と武力による威嚇を放棄したならば、自衛隊と日米安全保障条約は不要なはずだ。だが、いずれも現在では一部の左翼勢力を除くと合憲だという認識が広がっている。社民党ですら留保つきだが合憲を認めているらしい。第9条は自衛権を否定するものではないと言われる。常識的に言って、侵略されても抵抗するなと命じる憲法など考えられないから、自衛権が認められるというのはごく当たり前の解釈に過ぎない。しかしどこまでが自衛の範囲か決めるのは極めて難しい。日本が固有の領土だと主張する竹島は実質的に韓国軍の支配下にあるが、これを侵略とみなして武力行使しても自衛権の発動だとして正当化できるのだろうか。戦争と武力による威嚇を外交手段として放棄している憲法の理念から言って到底正当化できない。ではどこからが自衛権の発動として認められるのか。確かな基準はない。しかも自衛権を認めることが実質的な軍隊である自衛隊の存在を正当化することにはならない。況や日米安保を正当化することはほとんど不可能だと思われる。

 憲法と現実の距離を埋めるには非武装中立しかない。そのとき人々は憲法を生活に直結する身近な存在と感じるようになるに違いない。確かに非武装中立は多くの困難を引き起こす。直接侵略されることはないとしても、一切の武力による反撃や威嚇を放棄したら、日本の領海や領空に諸外国の軍艦や戦闘機が我が物顔で押し寄せてくる危険性がある。なるほど攻撃はしてこないだろうし、日本が外交ルートで抗議すれば形式的な謝罪はするだろうが、無法地帯になる危険性はある。日本の徹底的な平和主義が却って国際紛争を引き起こす可能性も否定できない。領有権で争っている竹島や尖閣列島などが完全に制圧され近くで日本人が安心して漁をすることができなくなるかもしれない。リベラルなオバマ大統領ですら戦争を外交手段として認めている。ロシア、中国、北朝鮮、韓国、近隣諸国も戦争を外交手段として認めている。これらの国々が、武力を完全に放棄した日本の政策を評価し、日本の領土を尊重し、日本との外交交渉において核兵器は勿論のこと一切の武力を行使しないことを保障しない限り、非武装中立は非現実な政策だと言わなくてはならないかもしれない。しかし、そうなると憲法と現実の距離は埋まらない。

 それでも最高法規である憲法に私たちは常日頃から関心を持ち吟味する必要がある。堅持するべきこと、見直すべきこと、様々な思想をそこから見つけることができる。いま、日本人の多くが進むべき道を見失っているように思われる。憲法にその答えが書いてある訳ではないが、未来を展望するとき、憲法が重要な指針であることには変わりはない。憲法記念日をただの祝日に終わらせることなく憲法の意義を今一度考え直してみたい。


(H22/5/2記)


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