井出薫
残業が久しぶりに増えたと報じられた。景気回復の兆しだと言う。しかし残業が増えることが良い徴だとは余りにも悲しい。 残業なしの正規の労働時間だけで生活を楽しむだけの報酬が得られるべきなのに、残業が生活に欠かせない。高度成長期がそうだったが、今でも変わらない。だとすると何のための経済成長だったのか、経済成長は本当に良いことなのか。 さらに悲しいのは、残業が増えたことを喜んでいる者が沢山いることだ。そんなに皆仕事が好きなのか、楽しいのか。パソコンとインターネット、携帯電話の普及で労働密度は確実に増大している。逃げても逃げても仕事が追いかけてくる。心を病む者は後を絶たず、自殺者も一向に減らない。仕事や人間関係が大きなストレスになっている証拠だ。それなのに仕事が減り残業がなくなると不安で仕方がない。日本人の悲しい現実がここにある。 一番悲しいのは、こういう日本の現実を人々が不審に思わないこと、反抗しないことだ。60年代から70年代の過激な学生運動が社会を席巻した時代は良かったなどと言うつもりはない。理想を口にしながら、あの運動は暴力的で全体主義の萌芽を孕む危険なものだった。それが破綻したのは当然で、破綻したことを今では幸運だったと考えている。それでも危険な運動ではあったが、残業が増えることを喜ぶような倒錯した社会心理を真正面から批判し社会の矛盾を暴き出すという効力はあった。毒ではあったが薬にもなりえた。だが今や毒もなければ薬もない。 どこに行ったら良いのか分からず日本社会は漂流している。没落していく社会の典型的な姿が今の日本に透けて見える。原因は色々あろう。政治では自民党政権が長すぎた。経済では安直に米国保守派の自由主義を取り入れ混乱を招いた。ロースクールの混迷は、日本社会の法社会学的研究に基づかない空疎な観念論の産物であり、弁護士の失業などという笑えない現実を招いた。 戦後の日本は良く考えることをせず場当たり的な対応をしながら、勤勉実直な性格が幸いし、数多の幸運にも恵まれ、経済的には先進国の仲間入りをした。医療などは問題を孕みながらも米国などと比較すれば遥かに良い制度を作り出した。そこには勿論多くの人々の努力があり全てが幸運の産物だなどと言うのは公平ではない。しかしそこには一貫した思想が存在しなかったことは間違いない。事実、半世紀前に丸山真男が警告した日本社会の思想的伝統の欠如が日本を隘路に追い込んでいる。 今更、丸山真男やマルクスを読んだところで道が見つかる訳ではない。しかし、哲学すること、思想的態度を取ること、そのための方法をそこから学ぶことはできる。そして、方法を汲みとり、現代という時代を哲学することが欠かせない作業となっている。もはや場当たり的な行動で幸運の女神を掴むことはできない。 了
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