☆ 捕鯨継続の意味はあるのか ☆

井出薫

 シーシェパードの振舞いは目に余る。いくら鯨が大事だからと言って、人命や健康を脅かす行為は許されない。だが国際的な非難にも拘わらず調査捕鯨と称して捕鯨を強行する日本、並びにシーシェパードの行動を批判的に報じるだけのメディアにも大いに問題がある。以前にも述べたとおり多様な食材が手に入る日本に捕鯨は不要だと筆者は考えている。異論があることは分かっているが、捕鯨の必要性について説得力ある議論を聞いたことがない。

 捕鯨は日本の素晴らしい文化、伝統だと論じる者がいる。だが問題の捕鯨はオーストラリアに近い海域で行われている。領海内ではないにしても、大多数の国民が捕鯨に反対している国の目と鼻の先で捕鯨をすることは挑発行為に等しく、少なくとも上品な振舞いではない。日本が捕鯨は日本の文化だと主張するならば、鯨の生命を尊重することがオーストラリアの文化であることを認める必要がある。公海だから問題ないではなく、地理的にみて日本よりもずっとオーストラリアに近い海では、オーストラリアの文化を優先するのが筋だろう。実際、世界の多くの人々がそう考えている。日本が、捕鯨がどうしても必要だと言うのであれば、日本の領海内だけで行うべきだ。もし領海内では経済的にペイしないと言うのならば捕鯨を放棄するしかない。

 反捕鯨のために多くの者が職を失ったと言う者がいる。しかし捕鯨だけではなく時代の都合で職を失ってきた者は無数にいる。新幹線や高速道が開通して如何に多くの旅館や民宿が店仕舞いをすることになり、如何に多くの者が職を失ったのか。「コンクリートから人へ」の民主党のスローガンは多くの選挙民の心を捉えたが、その政策で多くの建築業関係者は転職を余儀なくされることになる。少数民族エスキモーのように捕鯨を禁止されたら、生命そのものが危機に陥るあるいは民族そのものが崩壊してしまうような場合を除いて、職を失う者がいるということは捕鯨継続を正当化しない。しかも日本は国際貿易で利益を得て経済発展してきた国であり、世界の声に謙虚に耳を傾ける必要がある。

 狂信的とも言えるシーシェパードを支持するつもりはないが、「鯨は日本のものではない」と彼らが主張するとき、その言葉自身は正しいと認めない訳にはいかない。不景気だとは言っても、世界的にみれば日本は裕福な国に属し、捕鯨が禁止されて職を失う者、生計が苦しくなる者がいれば、国や自治体がそういう者たちを守ることが十分にできる。それができないと言うのであれば、「コンクリートから人へ」というスローガンは絶対に実現できない。

 日本人は、シーシェパードを一方的に非難するのではなく、自分たちの行動が国際社会に受け入れられるかどうかを真剣に考える必要がある。


(H22/2/22記)


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