自民、民主など各党のマニフェストが出揃ったとメディアは大報道しているが、ただ目玉になりそうな情報を垂れ流しているだけで、読者・視聴者のために適切な報道をしているとは言い難い。そもそも、なんで「マニフェスト」なのか。日本語に「政権公約」という適当な言葉があるのに、わざわざ「マニフェスト」と銘打つとは軽薄そのものだ。 それでも政権公約の報道はまだよい。ただ情報を垂れ流しているだけで、読者、視聴者は予想通り冷ややかに眺めている。だが、明らかに読者、視聴者を誤った方向に導こうとしている報道がある。それは二酸化炭素排出量削減問題だ。多くのメディアは高い目標値を掲げることが良いことであるかの如く論じている。高い目標値に異議を唱えるメディアも目標値を掲げること自体は不可欠だと言っている。しかし本当にそうなのだろうか。1997年末の京都会合で日本は2008年から12年の平均で90年比6%の二酸化炭素排出量削減を約束した。だが予想通り削減目標は達成できていない。削減どころから増加しているのが実情だ。97年より技術が進み、一般市民の関心も飛躍的に高まったとは言え、二酸化炭素排出量削減はけっして容易ではない。1997年の約束が果たせなかった原因を分析もせず、高い目標値を掲げることが不可欠だと言うのは、出来もしない政権公約をとにかく掲げろと言うに等しい。しかも二酸化炭素排出量が増加したのは、大量の二酸化炭素を排出する産業やライフスタイルが(少なくとも先進国の)市民に快適な生活をもたらしてきたからであり、二酸化炭素削減には市民にも応分の負担を求める必要があることを明確に論じていない。しかも先進国が高い目標を掲げることが排出量削減の国際的枠組みに発展途上国の参加を促すことになるなどと言っているが、これは余りにもお目出度い発想だと言わなくてはならない。発展途上国は「大量排出国である先進国が大幅削減するのだから、我々が削減する必要はない。どうしても削減が必要だと言うなら費用負担を全部先進国が遣れ。」と考えるかもしれない。いや、寧ろ当然そうなる。発展途上国にとっては二酸化炭素排出量削減よりもまず国を豊かで平和にすることの方が遥かに重要で、誰もそのこと自体を批判することはできない。空気中の二酸化炭素排出量がたとえば500ppmを超えたら、あるいは温度上昇が2度を超えたらどうなるのか、本当のところは良く分かっていない。いや、実際にそうならないと何が起きるか分からないというのが真実だ。しかも現状のまま放置しても500ppmに到達するのは50年くらい先と予想される。地球温暖化が大きな不確実性を孕み、長期的な課題であるということを考えれば、発展途上国が経済成長を優先させることは当然の権利と言える。そして、その中には中国とインドも含まれる。両国の発展は目覚ましいが全体を見ればまだ貧しい者が多く、経済発展を二酸化炭素削減のために犠牲にする余力があるわけではない。 筆者はこれまでも二酸化炭素排出量削減は不可欠だと論じてきた。二酸化炭素増加が何をもたらすか不確かであることを理由に、二酸化炭素増加など大した問題ではないと論じる者を批判してきた。だからと言って、ただ高い目標値を立てることが良いことではない。また地球温暖化が現代世界の最大の問題だというわけでもない。高い目標値を立てても実現できなければ何の意味もない。実現できなかった国に排出量売買などで高い負担を強いることはけっして良いことではなく、衡平の原則にも悖る。なぜなら、かつてのロシアのように努力の結果排出量が減ったのではなく、経済崩壊して偶然減った国もあるからだ。最大の努力をしたのに目標を達成できなかった国が、何もしないで結果的に目標を達成できた国に大金を支払うことになれば誰がみても不公平だと感じるだろう。事実、97年の京都議定書の最大の欠陥はそこにあると言ってよい。国際社会にとって現時点で地球温暖化が最大の課題であるとも言えない。世界各地の紛争、貧困、人口増加が続くなかでの食糧確保をどうするか、地球温暖化よりも深刻で喫緊の課題がたくさんある。そういう現実を踏まえて地球温暖化問題を考えないと意味がない。 削減目標値の高さを競うような馬鹿なことは止めた方が良い。各国が確実に実行できる対策を取ったときにどれだけ排出量削減が可能か確認することが先決だ。もちろんその程度のことでは削減は無理で、増加率を緩和する水準に留まることになる。だが、まずはその水準を確認することから始めなくては、どんな施策も絵に描いた餅になる。発展途上国が経済発展を優先することは当然だ。これは変えることができない現実だと考える必要がある。寧ろ、この先20年から30年の間は、二酸化炭素排出量削減対策は先進国だけで実施し、寧ろ国際社会の課題としては貧困の撲滅と平和の実現、食糧確保を最優先にするべきだろう。平和で生活もそこそこに良くなれば、誰もが環境に関心を持つようになり、ある程度は生活の利便性を放棄してもよいと考える余裕が生まれる。そういう状況を生み出すことが何より求められている。そして、それが回り道に見えても環境問題解決のための最も手っ取り早い方策となる。 事態をよく観察し、何が必要か、何ができ、何ができないのかを分析もせずに、高い目標値を掲げることが経済大国日本の責務であり、日本の利益にも繋がるかのように論じる報道を見ていると情けなくなる。選挙民の歓心を買おうと躍起になっている政治家と少しも変わらない。インターネットが幾ら普及しても本来報道が不要になることはない、批評が無意味になることもない。だが今の報道の有様では「インターネットの普及による報道の死」という標語が現実味を帯びてくる。もう一度報道の原点に戻り、その責務を果たすよう努めてもらいたい。 了
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