☆ 道徳教育 ☆

井出薫

 退任した中山国交相は論外だが道徳教育は必要だという意見の人が多い。だが賛成できない。

 道徳を身につけることが教育の重要な目的であることは異論ないが、殊更「道徳教育」を前面に押し出すことには疑問を感じる。学校教育で教える科目は、言葉の使い方や文法、社会的な規則、科学的な知識と方法、ルールや方法が確立した体育・美術・音楽など普遍的妥当性を有するものを原則とするべきだ。

 道徳は相対的、主観的な性格が強く、他の科目のように簡単に教えることはできない。「人を殺すことはいけない」という道徳の第一原則ですら、一般論としてはほとんどの人が同意するとしても、個別の問題では意見が分かれる。死刑は人殺しではないのか?死刑の是非は意見が分かれる。ドアの鍵を掛けずに眠ってしまったところ誰かが深夜忍び込み真っ暗な部屋の中でごそごそやっている。強盗だと思った私は部屋にある金属バットで殴り付ける。打ち所が悪くその者は死んでしまう。調べたところその者は強盗ではなく酔って家を間違えただけだと判明する。私は殺人罪で告発されるだろうか。おそらく正当防衛が認められる。だが鍵を掛け忘れたこと、他人の家に侵入したとは言え悪気はなかったことを考えると私は後悔の念に駆られるだろう。貧しい国で医療活動をする医師のところに重い病気を患う子供が母親とともに遣ってくる。薬は一人分しかない。その子は衰弱が激しく薬を使っても治る見込みはほとんどないと医師は判断する。だが子供を助けたい一心の母親を薬の投与を強く望む。医師はどうするべきか。投薬はしないだろう。投薬後、薬を使えば治癒する子供が運び込まれたときに助けることができなくなる。手遅れであることを説明して母親を納得させるしかない。だがたとえどんなに説明をしても母親は医師を冷酷な人間だと非難するだろう。では新たに同じ薬が半日後には到着するという場合はどうか。それであれば投薬で治る子供の治療はできる。だがたとえそうでも病気が流行しており薬の絶対量が足りないという状況では治る見込みのない子供に投薬する訳にはいかない。母親に非難されながら医師は苦渋の選択をすることになる。筋委縮性側索硬化症(通称ALS)の患者は病気が進行すると人工呼吸器の助けなしには生きていけなくなる。治療法がないこの病気では人工呼吸器を装着したらそれを外すことはできない。他人の介護なしでは生きていけず、寝たきりで人工呼吸器で辛うじて命を存えている状態、これは生きるに値するのかという難問がある。日本では本人が望むのであれば人工呼吸器を装着することがほとんどで、こういう状態でも生きていることに意味があると考える人が多い。筆者も同意見だ。ALSでは知能は正常でコミュニケーション手段があれば色々なことができる。植物状態でただ心臓が脈打っているだけというのとは訳が違う。とは言え、その生命活動は限定的で、欧州では、人工呼吸器を付けてまで生きる意味はないと考える者が少なくない。そのため患者が望んでも医師が人工呼吸器の取り付けを拒む場合もあると聞く。だが、どちらが正しいのか俄かに判断はできない。「嘘を吐いてはいけない」というのも重要な道徳原理だが常に正しいとは言えない。余命幾ばくもない年老いた母親が息子の帰りを心待ちにしている。そこに医師のもとに息子が死んだという知らせが入る。息子は元気か尋ねる母親に医師はどう答えるべきか。「あなたの息子さんは死にました」と正直に言うべきだろうか。カントならそのとおりだと言う。だが多くの者は「息子さんは元気にしている」と嘘を吐いた方がよいと考えるのではないか。実存哲学者は「一人の若者がいて二つの選択肢の間で迷っている。ヒットラーの横暴から人々を守るために抵抗運動に身を投じるか、故郷でひたすら息子の帰りを待つ年老いた母親のもとに帰るか。」という問いを立てて、道徳的決断に普遍的な原理・原則など存在しないことを示した。

 このように道徳には、各個人が一度限りの全人格を賭した決断という性格があり、語学、数学、自然科学、社会科学の科目のように学習要領でマニアル化することはできない。特に健全な懐疑精神と批判精神が身に付いていない小学生・中学生などに仰々しい「道徳教育」なるものを施すことには危険がある。

 道徳は専ら相対的、主観的、一回限りのもので、普遍的性格はないと言うのではない。「人を殺してはいけない」、「暴力はいけない」、「差別はいけない」、「人を苦しめてはいけない」、「嘘を吐いてはいけない」、「人の物を盗んではいけない」、「自分がして欲しいことを他人にしてあげなさい」など、一般論としてはほとんどの人が同意する規律は存在する。だが誰もが同意できるような規律はこの程度だろう。飲酒や性行動については多様な意見があり、「姦淫はいけない」や「酒を飲んではいけない」は一般的に妥当な規律とみなすことはできない。だとすると、ほんのこれだけのことであれば、教室に人として守るべきこととして10余りの言葉を大きな紙に大きな字で書いて壁にでも貼り付け、それを見て先生と生徒が日々反省すれば十分で、殊更「道徳教育」など必要はない。

 しかも相対的、主観的な性格が強い道徳を独立な教育目標とすると、「神国日本」、「忠君愛国」、「天皇陛下万歳」、「共産主義革命」、「自力更生」などという人の頭を麻痺させる勇ましい文句とイデオロギーが忍び込む危険性がある。なぜなら、教育現場では生徒には正しいことを教えるという建前があり、相対的なものを絶対的なものへと置き換える必要が生じ、それには強い言葉とイデオロギーで先生と生徒を思考停止にするのが一番有効だからだ。これは極端な例だと言われるだろうが、いずれにしろ、こういう危険性があるものを導入するメリットはない。寧ろ、日々の授業やクラブ活動の中で互いを尊重し、助け合い、支え合う心を育み、その一方で健全な批判精神と懐疑精神を培うことが余程道徳的にためになる。

 道徳教育を否定した戦後教育が原因で日本人は自分勝手になったなどと言う人がいるが、これには全く根拠がない。戦前の人間には私利私欲がなかったというのは全く事実に反するし、戦後の人間が皆我儘だというのも事実に反する。人間という種は集団をなして生きている。人間に限らずどの動物でもそうだが集団には秩序があるが絶対ではない。それゆえ人間には利他的精神と利己的精神が共に宿る。一般的に言って、生活が豊かになるか、極端に貧しくなると利己的精神が前面に出てくる。豊かになると協力し合う必要性が感じにくくなり、極端に貧しいと他人のことを考える余裕がない。おそらく少し貧しいくらいのときが最も利他的精神が発揮されると思う。その観点からすれば、経済発展した日本で人々が聊か自分勝手になっていたとしても致し方ない。それは生物学的必然と言ってもよい。事実自分勝手が最も目に付くのは都会に暮らす豊かな階層で、地球環境問題の解決、貧富の格差解消などと口では綺麗ごとを並べるがその行動は甚だ自分勝手なことが多い。これは日本に限らずどこの国でもそうだろう。だから現代の日本人が自分勝手だとしても、それは戦後教育の所為でも、日教組の所為でも何でもない。日教組を解体しても、戦後教育を抜本的に見直しても、道徳教育を導入しても状況は改善しない。寧ろ悪くなる。

 教育現場で生徒が道徳心を身に着けることは教育の(おそらく一番)大切な役割だ。だが道徳教育の導入ではそれは実現しない。



(H20/10/11記)


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