☆ 五輪に違和感あり ☆

井出薫

 盛り上がりに水を差したくはないのだが、五輪に違和感がある。野球日本代表チームは開会式が終わった翌日も国内で壮行試合をしている。見事大敗を喫したのは御愛嬌だが、五輪の精神はどこに行ったと一言文句を言いたくなる。

 五輪の精神は、世界中の若人が集い、日ごろの鍛錬で磨き上げた技を競い合い、互いの友情を深め、ひいては世界平和に貢献することにある。勝ち負けよりも国境を超えて友情を深めあうことが大切なはずだ。本来、開会式前には選手村に入り、開会式に参加し、自分の競技が終わっても最後まで残り閉会式に参加する。そうあるべきではないか。ところが勝利だけが五輪出場の目標となり、開会式も閉会式もどうでも良くなっている。他国の選手との交流など眼中にないのだろう。野球チームは予選で敗退すれば閉会式を待たずにさっさと帰ってくる。

 野球だけではない、他の種目もそうだし、日本に限ったことではなくどこの国でも同じことをしている。五輪の精神は踏み躙られ、開催国は国威発揚、五輪委員会は放映権収入、有力選手はメダルだけが目的となっている。そして観客や視聴者もプロセスではなく結果だけを追い求める。

 別にそれで良いではないか、今さら綺麗事を言って何になる。そう言われるだろう。そのとおり、4年に一回、世界が注目する一大イベントを遣ることにケチを付ける必要はない。だが五輪の精神が廃れていくことが寂しいのだ。東京五輪の頃はアマチュア主体で、開会式前にはほとんどの選手が選手村に入り、開会式に参加し、競技が終わっても残り閉会式に参加した者が少なくなかったと記憶している。選手村で選手たちは勝敗を超えた、それよりもずっと大切なものを手にしていたはずだ。観客も今よりずっとプロセスを重視した。マラソンで2大会連続金メダルをとったアベベはその強さもさることながら、偉大な哲人を彷彿とさせるその風貌と冷静な走りに打たれるような感動を覚えたものだった。悲劇に見舞われた故円谷選手が最終コーナーで抜かれ3位に終わったとき、最後に抜かれたがゆえに却って感動的で未だにその映像が記憶から消えない。

 確かに第一回大会から五輪の精神など建前に過ぎなかったかもしれない。だがたとえ建前に過ぎなかったとしても、その精神を少しでも現実に活かしていこうという気概があったと思う。しかし、今やそれは完全になくなり、ただ勝敗を競うイベントになった。五輪を改革しろなどと言っても無理だろう。資金不足と肥大化した大会の制御が困難になって規模を縮小するくらいが関の山だ。別に今の五輪はこのままでよい。どうせ開催できるのは金持ちで政治力のある国に限られている。

 ただ五輪の精神を活かせる場所が欲しい。商業主義・大国主義の今の五輪とは違い、小規模だが明るい未来と平和を求める世界中の若者たちが互いの友情の証として技を競い合う場所が。



(H20/8/10記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.