☆ スターリン ☆

井出薫

 こんなところで「スターリン」の名を目にするとは思いもよらなかった。7月4日、株価12営業日連続下落は53年のスターリン暴落以来のことだと報じられた。

 「スターリン」この言葉にはマルクス主義に一度でも傾倒したことがある者であれば、特別の思いがあろう。ヒットラーと並ぶ20世紀の恐怖政治を演出した独裁者にして虐殺者、マルクスの思想と共産主義運動を台無しにした男と批判する者は多い。基本的に私もその一人に属する。その一方で、ヒットラーと違い死ぬまで権力と個人崇拝を維持したスターリンに対してはその業績を高く評価する声や、独裁や虐殺を批判しつつも歴史上の英雄の一人として評価するべきという意見も少なからずある。歴史に疎い私にはこの問題に判定を下す能力はない。そこで、感慨を込めて、ここではスターリンの思想、特にその哲学を一瞥して現代的な意味を考えてみる。

 スターリンの考え方は実に単純で分かり易い(だからこそ人々の頭を支配するには有効だった)。マルクスの思想の根本は弁証法的唯物論という科学的世界観にあり、それは人間社会のみならず自然を含む全世界に当てはまる普遍的で客観的な原理と法則を語っている。これを人間社会とその歴史的発展に適用すると、社会・歴史の基礎理論である史的唯物論(別名:唯物史観)となり、それを資本主義という歴史上の特殊な社会体制に応用することでマルクスは「資本論」で資本主義の本質を解明した。これがスターリンのマルクス主義だ。弁証法的唯物論→史的唯物論→資本論という段階構造をスターリンは想定している。たとえば物理学とのアナロジーを使えば、量子・統計物理学(基礎原理)→相転移・臨界現象の一般理論→BCS理論(高温超電導を除く超電導現象を説明する現象論的理論)と並行している。つまり普遍的な原理「弁証法的唯物論」から、中間的な段階である史的唯物論を経て、現象論「資本論」が導出されるわけだ。

 このようなスターリンの考えは、マルクス主義者からも多くの批判を浴びている。史的唯物論こそ第一原理の地位を占めるものであり、そこから弁証法的唯物論が基礎づけられると考えるべきだと唱える者がいる。又、史的唯物論も弁証法的唯物論も社会研究や理論記述の便宜的な方法に過ぎず、マルクスの本質は資本論に集約されていると考える者もいる。その他にも様々な批判があるがこれくらいでよいだろう。

 ヘーゲルの弁証法とフォイエルバッハに代表される機械的唯物論を止揚した(とされる)弁証法的唯物論についてマルクスはほとんど何も語っていない。盟友エンゲルスが「反デューリング論」、「フォイエルバッハ論」や未完の著作「自然の弁証法」でその概略を説明し、レーニン他多くのマルクス・エンゲルス主義者たちが様々な考え方、見方を付け加えたものが「弁証法的唯物論」という名称で定着したに過ぎない。一方、史的唯物論は、マルクスが資本論の前作「経済学批判」の「序言」で明らかにした自身の歴史観に基づくものであるが、ここでもマルクスはごく簡単な説明を与えているだけで(文庫本で僅か2ページ!)、深い考察が展開されているわけではない。同じ「経済学批判」の「序説」で展開されている「経済学の方法」などに関する叙述を合わせて読むことで、それをある程度体系化することはできる。しかし様々な理論の基礎となるような科学的あるいは哲学的な体系が整う訳ではない。

 要するに、弁証法的唯物論、史的唯物論、いずれもその位置づけは曖昧で、マルクスの思想の根幹をなすと考えることはできない。ところがスターリンの単純な図式が長くマルクス主義者の頭を支配した、いや、今なお一部では支配しているという事実を思い起こすとき、スターリンがマルクス主義運動においていかに大きな存在だったかを改めて思い知らされる。これは確かにマルクス主義と世界の人々にとって甚だ不幸な出来事だったと言わなくてはならない。

 マルクスの思想は「資本論」に集約される。マルクスを読み解き、それを現代に生かしていこうとするとき、まず向かうべきは「資本論」であり、かつて世界を支配した教条主義的なマルクス主義者たちが宣伝した弁証法的唯物論や史的唯物論ではない。そのような哲学的な世界像や歴史観は寧ろ資本論を読み解く過程で二次的に産出されるものと捉える必要がある。

 スターリンの非人道的な政治活動への批判から、若きマルクスの著作「経済学哲学草稿」を資本論以上に高く評価しようとする動きが、スターリンの死後、そして近年にも起きている。このような試み(しばしば人間主義的マルクス主義などと呼ばれる)に対して適切な評価を下すことは難しい。ただ「草稿」に学ぶべき点、参考にするべき点が多々あることは認めるとしても、やはりそれは資本論へと至る過程で克服された古い誤った思想が混在する通過点とみなす方が素直だろう。資本論がスターリンやその追従者たちに聖典化されたことで、その反動として若きマルクスに着目する機運が生まれるのはある意味当然と言える。だが「草稿」はマルクスが本格的に自分自身のオリジナルな思想を模索し始めたときに、とりあえずフォイエルバッハとヘーゲルをお手本にして書いた試論を超えるものではなく、そこに崩壊した教条主義的マルクス主義を超える思想を読み取るあるいは読み込むことは無理がある。それにも拘わらず、こういった試みが絶えることがないのは、21世紀に入り環境問題・資源問題など新しい世界史的課題が人々の視界に入るようになり、また先進国で富が増大したのに鬱病など精神疾患の患者が増加したという現実から、マルクスに対しても新しい見方が出てきたからだと言えなくはない。しかし、それでもやはりスターリンの負の遺産が今もなおマルクスへ傾倒する者たちに影響を与え続けていることが大きな要因であると指摘しないわけにはいかない。

 スターリンの死後すでに半世紀以上が経過した。だがスターリンは依然として亡霊のようにこの世を彷徨っている。その克服はマルクスに未来の可能性を見つけ出そうとする者たちの共通の課題であることに変わりはない。因みにマルクスはすでに終わっていると考える者たちには、株価の乱高下で人々の生活が左右される社会の克服が求められている。

(H20/7/6記)


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