☆ 経済体制改革の可能性 ☆

井出薫

 米国のサブプライムローン問題に端を発して世界経済が失速の危機に見舞われている。これが深刻な世界恐慌に繋がるとは思えないが、市場経済がけっして万能ではないことを示している。

 現代の市場経済は政府や中央銀行が強い影響力を行使する計画経済的な性格も併せ持つ経済体制であり、市場の自由に全てを任せているのではない。とは言え市場の自由が極めて重んじられる体制であることに変わりはない。生産には一定の規制が課せられることもあるが、消費に関しては課税措置がなされるだけで、武器、薬物、児童ポルノなどごく一部の商品を除いてほとんど規制はない。支払い能力がある者は誰でも自由に自分が欲しい商品を購入できる仕組みになっている。

 市場経済を擁護する経済学者は、政府や中央銀行の役割を重視する者でも、基本的に市場は経済活動を円滑に進める上で最良の方法であり、多くの場合うまく機能すると信じている。事実、欧米の先進国は市場経済で豊かな社会を築いてきたし、発展途上国でもグローバル化した市場経済で急速な発展を遂げている国が少なくない。何よりも、旧ソ連・東欧の共産主義が崩壊し、中国が計画経済から市場経済に切り替え経済的に大成功を収めたことが市場経済の優位性を雄弁に物語っている。

 しかし、市場経済は、政府や中央銀行が適宜介入しても常に上手く機能するとは限らない。定期的に景気は後退し人々の生活に多くの悲劇をもたらし、往々にして所得格差の是正と経済成長がトレードオフの関係になるというジレンマに悩まされる。市場経済で成功を収めた国・地域・社会層は限られており、市場経済で世界の全ての人々が公平に豊かな生活を享受できるようになる保証はない。環境問題や資源問題では市場の自由が問題解決の妨げになる。市場経済を超えた体制を望む人が今でも少なくないのは当然と言えよう。

 では市場経済に代わる体制はあるだろうか。単純な中央集権的な計画経済がうまく機能しないことは現実の歴史が証明した。計画経済は効率性で市場経済に劣るという意見があるが、それは必ずしも真実ではない。計画経済でも効率の良い生産は可能なはずだ。計画経済の最大の欠陥は必然的に経済における独裁を生み出すという点にある。そして経済の独裁は容易に政治的な独裁に転化する。国民すべてが参加して経済活動の計画を立案することは物理的に不可能で、権力の中枢に位置する一握りの者や組織の権限で計画は決まる。そしてその権力は全国民の消費活動を含めた全経済活動を統制するものとなる。市場経済でも企業活動は社長や一部の者の意志で決まる。だがその権力は企業と関連する市場に及ぶだけで、企業は消費者を強制して商品を買わせることはできない。(広告宣伝を通じて消費者を洗脳することは可能だが、一般的にそういう遣り方は禁止される。)社長の強い意向で商品Aではなく(Aとほぼ同じ効用を有する)商品Bを生産し販売することが決まったとする。しかし消費者は商品Aを選択し、商品Bが全く売れないということが当然ありえる。その企業の従業員や社長の家族すら商品Aを購入することだってある。市場経済では、それを意識することはほとんどないが、国民が市場を通じて生産者の行動を規制している。こうして経営者や政府・中央銀行の権力も市場を通じて間接的に制限を受ける。だが計画経済では権力者の力は絶大で、国民は指示されたとおりに生産するだけではなく、指示されたとおりに消費しなくてはならない。これはまさに独裁だ。計画経済の非効率はその経済体制の直接的な帰結と言うよりも、自由を奪われその代償として失業の不安はないという状況に置かれた国民のモラルハザード(懸命に働いても、働かなくても同じという意識の発生)によるものと考えるべきだろう。

 計画経済は、計画立案の単位を小さくすることで、生産における中央権力の権限縮小と各人の裁量拡大が可能だが、消費が生産側の計画で制約されるという欠陥を克服することは難しい。消費の自由を認めれば、どうしても実質的に市場経済へと向かうことになる。

 計画経済が駄目だとしたら、他に何かあるだろうか。自由経済か計画経済、他の選択肢があるとは考えにくい。これはほとんど論理学的な真理ですらある。唯一の希望は「自由経済=現在の市場経済」ではないという点にある。だが市場経済ではなく、かつ、公平性を担保できるような自由経済体制が存在しえるだろうか。おそらくできない。市場という機構抜きで、公平性を担保可能な自由経済というものは考えられない。残された選択肢は、市場という機構を維持し、それを抜本的に改革するという道だ。

 勿論これは容易ではない。既存の福祉国家路線や規制緩和・自由化路線は抜本的な改革ではなく、小手先の組織変更や法改正に過ぎない。

 繰り返しになるが、現在の市場経済をただ単純に再生産するだけでは、格差と景気変動による悲劇は解消されず、環境問題、資源問題、世界的な富の偏在が深刻化して世界的な規模で計画経済的政策を導入しなくてはならない非常事態が発生しないとも限らない。(だが世界的な規模での計画経済は不可能だ。)やはり市場の抜本的な改革が欠かせない。それを実現するための手掛かりはどこにあるだろう。

 現在の市場経済を支配するのは、「貨幣」との交換関係で規定される(「価格」として私たちの目の前に現れる)価値=商品価値だ。企業は価値増殖が見込まれるとき、つまり利潤獲得の可能性があるところだけで活動する。だから経済成長と安定のために政府や中央銀行さらには世界銀行などが介在して企業活動を促進する必要が生じる。

 価値は基本的に需要供給のバランスで決まる。マルクスは商品生産に必要な社会的平均労働時間で価値は決まると考えたが、労働時間は極めて重要な要素の一つだが、それだけでは価値は決まらない。だから社会的な有用性が高くないものが異常な価値を有することがあれば、逆に社会的な有用性が高いものに低い価値しか与えられないこともある。食料品など生活必需品が安い一方で、なくても困らない娯楽関係の商品やそこで活躍するスターたちが異常に高い価値を持つことがある。イチローや松坂は農業や漁業に従事している労働者たちの100倍以上の年収を得ているが、彼らが生み出しているものがそれほどの社会的価値があるかどうかと問われれば明らかに答えはノーだ。野球がなくなっても他に娯楽を見つけることは容易で、彼らの他に新しいヒーローを見つけることも簡単だ。要するに一時的な需給のバランスが彼らに莫大な所得を約束しているに過ぎない。一方農業労働者の仕事は確かに他の者でもできる仕事かもしれないが、社会を維持するために不可欠だ。なるほど日本は農業や漁業から徹底して輸入一本やりにすることはできる。だが世界のどこかで誰かがこれらの仕事に従事しなければ、世界中の人間はお金があっても餓死してしまう。野球が消滅して野球ファンが全員サッカーファンに鞍替えすることは可能だが、農業や漁業をすべて娯楽産業に置き換えることは絶対に不可能だ。その逆は可能だが。

 このような「価値」が経済活動の指標となっているところに、現代の市場経済の致命的な欠陥がある。イチローや松坂は社会的に不可欠ではないにしても確かに私たちの心に大きな喜びをもたらしてくれる。農業や漁業労働者との比較においてその収入が妥当かどうかは疑問だが、それでも彼らが高い収入を得る根拠は存在する。だが全くそういう根拠が欠けているものがある。株価だ。専門家でも、企業Aの妥当な株価が幾らか計算できる者はいない。株価は人々の思惑だけで上下して、株取引に手を出す者は、空疎なゲームに明け暮れ、あるときは狂喜乱舞し、あるときは悲嘆に暮れる。ここに現代市場経済の根源的な不健全性を垣間見ることができる。株式市場が資金調達の有力手段であり、また業界再編を促す場所であることは事実だ。だから株式市場の有益性を否定するつもりはない。だが株価の乱高下は、「価値」が支配する市場経済がいかに不健全かを雄弁に物語っている。

 では価格として現象する「価値」にとって代わる市場の指標が存在しうるだろうか。難しい問題だ。だが、農業や漁業、工業、商業、娯楽産業、株式市場、福祉、文化、学問など人間社会の諸領域を比較考察していけば、新しい指標が発見できる見込みはある。そして、新しい指標の下でより良い市場経済が確立するだろう。それは市場経済ではあるが、もはや「資本主義」とは言えないものとなるはずだ。(注)

 産業活動の規模は地球環境の許容可能な限界に近づきつつある。市場経済は、おそらく民主制と人権、社会的公平と両立しうる唯一の経済機構だろう。だが、現代の「価値」が支配する市場経済ではいずれ破綻をきたすことになる。市場の改革、それも皮相的な組織や法律の小手先の改革ではなく、そのシステムの根源に遡った抜本的な改革が求められている。これは困難な課題だが解決不可能ではないと信じたい。

(注)資本とは価値増殖体を意味し、価値増殖(=資本生産)を目的として経済活動が営まれるという意味で現代経済は資本主義となる。

(H20/2/7記)


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