井出薫
早朝の混雑した電車に乗るといつも思うことがある。世界で1億人もの死者を出す可能性があると言われる新型インフルエンザウィルスが流行したら、ここにいる人たちはどうするのだろうかと。 おそらく、大多数の人は発病するまでは通勤通学を止めることはないだろう。だとすると東京での大流行を避けることはほとんど不可能だ。企業や学校は始業時間を変更して混雑を緩和することに努めるだろう。人々はウィルスを防ぐと称するマスクをして通勤通学をするだろう。だが、その程度では混雑は解消されないし、マスクの効果は万能ではない。僅かの隙間からウィルスが侵入するかもしれない。しかもマスクは息苦しくてどうしても駄目だという人もいるだろうし、マスクを外さなくてはならないこともある。 東京は衛生がよいから大丈夫だと高を括っている人がいるがとんでもない誤解だ。ウィルスは目に見えず、誰も免疫を持っていないから一旦世界のどこかで広範囲に流行が始まったら、世界中から人と物が流れ込んでくる東京で流行を未然に防ぐのは至難の業と考えておく必要がある。流行を避けるためには流行が収まるまで都民全員がどこか地方に疎開するか家でじっとしている必要があるが、いずれも現実には不可能だろう。 世界保健機構が鳥インフルエンザウィルスH5N1型から人間同士で空気感染する変異型が生じ世界で大流行するのは不可避だと宣言してから2年以上が経過した。専門家が言うことが正しいとは限らないから、このまま流行が起きることなく終わるのではないかと期待する声もある。だがそれは根拠のない期待でしかない。ウィルスの変異は頻繁に起こり、鳥インフルエンザと人間に感染するインフレエンザウィルスの差は小さい。だとすれば大流行は起きると考える方が妥当だ。 ワクチン開発が急がれるが、まだ出現していないウィルスのワクチンを生産することはできない。現存するH5N1ウィルスを基にしてワクチンを作ることになるが、それが新型ウィルスに有効なのか疑問が残る。タミフル、リレンザという抗インフルエンザウィルス薬の効果も未知数だ。新型でもウィルス増殖のメカニズムは既存のウィルスと同じだから効果はあると期待されるが、実際に新型が登場してみないと効果は確認できない。さらにこれらの薬はウィルスを殺す薬ではなくウィルスの増殖を抑える薬であることも忘れてはならない。体内で一定以上にウィルスが増殖してしまうと効果はほとんどなくなる。特効薬というほどのものではないのだ。 子供や老人の死亡率が高くなると予想されるが、スペイン風邪のときは若者の方が死亡率は高かったとも言われている。感染する機会が多かったからだと思われるが、ウィルス感染に対する免疫反応に異常が発生して免疫力が高い若者の方が却って死亡率が高くなったという説もある。老人と子供だけが用心すればよいというわけではない。 さらに伝染病で多数の死者がでる、病院が患者であふれかえり外まで患者が列をなすなどという経験をした者は日本にはほとんどいないから、大流行したときに人々がパニックに陥ることも危惧される。スペイン風邪のときはまだ医学が今ほど発達しておらず、また伝染病で多数の死者が出ることが珍しくなかったため、さほどのパニックは起きなかった。ところが今は知識、それも歪められた知識が満ち溢れているからパニックが起きやすい。 行政の迅速な対応が望まれるが、ただでさえ動きが鈍い日本の行政機関、流行がいつどこでどの程度の規模で起きるか現状では予測がつかないこと、国民の関心がいま一つということもあり、具体的な対策は進んでいない。 結局のところ、多くの人が大混雑の中で感染して死んだら損だという気持ちを起こし、会社や学校を休んだ方が自分のためだけではなく皆のためになると考え行動することが最善策のような気がする。しかし競争社会に生きる現代人の行動様式を考えるとそうはいかないだろう。専門家の予測がはずれるか、毒性の強いウィルスが人間に感染するように変異したとき毒性の弱いウィルスに変わっていることを祈るしかなさそうだ。 |