☆ 戦争への反省を忘れるな ☆

井出薫

 だいぶ以前に亡くなった(母方の)叔父は戦前東大の化学科に所属する血気盛んな若者だった。敗戦が濃厚となったある日叔父は研究室から青酸カリを持ち出した。敗北したら自決するつもりだったらしい。察知した祖父は激怒してそれを取り上げ廃棄した。祖父は大銀行の幹部で国家の求めに応じて財産のほとんどを国債に投じた。その結果、敗戦で大部分の財産を失うことになり戦後は土地を切り売りして生活費を得ていた。祖父はそのことで何ら不平不満を漏らすことはなかった。戦争になれば協力するのが国民の義務だというのが祖父の考えだった。−尤も、祖父は軍人が大嫌いで、東条たちの処刑は当然だと語っていた。−だが敗北したら自決するなどという考えには断固として反対し、息子の行為をけっして許さなかった。

 叔父はそういう父親の下で育ち、東大の化学科で優秀な成績を収め、卒業後官庁系の研究所で新聞の一面に掲載された素晴らしい業績を挙げた大変な俊英だったが、それでも時代背景の下、敵に支配されるくらいならば自決するという軍国思想に洗脳されていた。

 沖縄の集団自決における軍部関与に疑問があるとして、文部科学省の指導で教科書から「沖縄県民の集団自決強制」の記述が削除され、沖縄県民が抗議の大集会を開催した。

 本当に軍部による自決強制があったかどうかは私には分からない。だが戦前という時代背景の下、大秀才だった叔父ですら、負けたら自決するという無謀な思想に洗脳されていた。その一方で国家に全面協力しながらも自決などという野蛮な行為をけっして容認しない祖父のような人物もいた。

 おそらく沖縄県民の中には軍国主義に洗脳されみずからの意思で自決した者もいただろう。だが身体的あるいは精神的な圧迫を受けて自決に追い込まれた人もたくさんいたはずだ。たとえ軍部による明白な強制がなかったとしても、これらの人はみな当時の軍国主義により無理やり自決させられたに等しい。

 原爆投下の広島、長崎とともに、戦争で最も大きな被害を受けた沖縄県民の声は重い。戦争を美化することは言うまでもなく、その残虐性や悲惨な現実を無視することはけっして許されない。右翼や保守反動派から自虐的だなどと批判されようと、戦前の軍国主義が如何に狂った思想であったか、それが如何に多くの日本国民並びに諸外国の人々の尊い命と希望を奪うことになったか、それをしっかりと語り継ぐことが日本人の責務だ。教科書は正確な記述が必要だが、疑問がないわけではないというくらいのことで、戦前の軍国主義と戦争の狂気性や残虐性を隠蔽するような記述変更をするのは間違っている。文部科学省に検定意見の撤回を求めるとともに、教科書執筆者と出版社、教科書を選定する教育現場では、右翼的偏向が目に付く近年の文部科学省や自民党文教族の圧力に屈することなく、未来を担う子供たちに真実を伝える勇気を持ってもらいたい。

(H19/9/30記)


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