☆ 政治の終わり ☆

井出薫

 安部首相は辞めるのではなく解散するべきだと書いた途端、代表質問を受けることもなく首相が辞任してしまった。自民党のプリンスはあっけなく舞台から去り、後を争うのは71の福田氏と間もなく67になる麻生氏だ。1年前さんざ気を持たせておいて出馬しなかった福田氏、漫画オタクを自称して若者受けを狙う麻生氏、バラエティ番組のゲームならば悪くはないが、外交内政ともに問題山積の現状では些か心許ない。

 吉田茂、岸信介、福田赳夫、今回の主役達の祖父や父は、善し悪しは別として、如何にも政治家らしい凄みがあった。彼らと覇を競った鳩山一郎、石橋湛山、田中角栄も凄かった。それに較べて何と小粒なことだろう。自民党は終わったと扱き下ろす悪口専門の夕刊紙の言葉が今回だけは妙に説得力がある。

 だが、それも無理はない。軍国主義に抵抗した吉田、石橋、戦犯から復活した岸、学歴もコネもないのにトップに昇り詰めた田中、今の政治家とは潜り抜けてきた修羅場の数が違う。マスコミや世論で叩かれたくらいで弱音を吐くような柔な者はいなかった。そう言えば、長年日本共産党に君臨し先ごろ亡くなった宮本顕治氏と現在の志位委員長を較べても同じことが言える。時代が違うのだ。

 一般社会とは異質な空間としての政治の時代は終わり、新しい幕が開かれようとしている。では、そこで演じられる劇は如何なるものとなるのだろうか。

 一つのシナリオはハイパー官僚主義の世界だ。戦後の経済発展と社会の多様化は古典的官僚支配を弛緩させた。一握りの東大出のエリート官僚が牛耳る世界はもはやありえない。だが民間も含めて多数の有能な官僚的人材のネットワークが社会を支配する可能性は高い。

 もうひとつシナリオが存在する。それは真の意味での民主制だ。そこでは、国民はただ政治家を批判したり称賛したりするのではなく、自らが政治に対して責任を持っている。たとえば選挙は、期待の表明や見返りを求める場ではなく、国民全てが自らの責任で政治に参加する場になる。誰も無視されることはないが、その代わり誰も無垢ではいられない。

 こういう社会が実現できるだろうか。不可能だと言う声が聞こえてきそうだ。徹底した民主制は衆愚制と背中合わせになっている。愚かな国民がファシズムを選択する危険性を考えれば、有能な官僚的人材のネットワークが国民を緩やかに支配する方が望ましいという考えもあるだろう。

 だが国民が常に愚かだと考えるのは間違いだ。人は誰でも状況により変わる。これまで国民はみずから政治に責任を持つ機会を与えられてこなかった。市民運動など政治参加の場は用意されていたが、そこを仕切るのはプロの市民運動家や言論人、左翼政党のシンパたちで、国民は所詮傍聴人以上の存在になることは許されなかった。だがプロの政治家が消え、同時にプロの市民運動家や言論人が消えつつある現在、国民が政治の主役になる機会は否応なく広がっていく。今回の主役達の顔ぶれを見れば、誰もが彼らに任せておくわけにはいかないと感じるだろう。さらにITやインターネットの普及は国民の政治参加を促す。

 これはけっして理想論ではない。責任を持つことは辛く厳しい。それは安部首相のやつれた顔が物語っている。国民が政治に責任を持つということは、国民も痛みを分かちあう、ときには泥を被るということなのだ。だが、これ以上に良いシナリオがあるとは思えない。有能な官僚的人材が常に有能とは限らないし、況や有徳であることを期待することはできない。ならば真の民主制を目指すしかあるまい。今回の自民党総裁選は正直お寒い。だがそこから私たちは私たち自身の責任を学び、新しい未来に向っていくことができる。

(H19/9/15記)


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