☆ 「共産党」からの脱却を ☆

井出薫

 グラムシ、トリアッティなど歴史に名を残すマルクス主義者を生み出し、60年代、70年代にはソ連・東欧の共産主義と一線を画するユーロコミュニズムの旗手として日本の左翼運動にも多大の影響を与えたイタリア共産党が路線変更をして左翼民主党に移行したのが91年、そして来年には、中道政党と合流して、党名から「左翼」という文字が削除されることになったと報じられている。

 現在のイタリア政権を支える中道左派連合の最大勢力である左翼民主党(旧共産党)とすれば政権を安定させるための当然の選択なのかもしれないが、ソ連を資本論に反した革命と評したグラムシの著作に大いに触発されるところがあった筆者のような者には一寸寂しい気がしないでもない。

 とは言え「共産党(コミュニスト・パーティ)」という名称に固執する日本共産党と比較したとき、実に現実的で柔軟な対応だと感心するしかない。その一方で日本共産党は何と頑迷なのだろう。非常に残念だ。はっきりと護憲を謳う議席を有する政党が共産党と社民党しかないというお寒い現況で、共産党には頑張ってもらわないといけないだけに尚更その感を強くする。

 党名など些事に過ぎないという意見もあるかもしれないが、左翼政党にとって党名は極めて大きな意味を持つ。現代社会において「共産党」という言葉は、「資本論」と「共産党宣言」に代表されるマルクスの資本主義批判と革命思想並びにその後継者たちが指揮した国際的な共産主義運動を継承する政党という意味を持つ。日本共産党が、綱領からマルクスの名前を削除して、労働者が主人公となる社会の実現を目標とすると宣言しても、根本思想がマルクスにあることは否定しようもない。数年前当時の共産党の最高指導者であった不破哲三氏がマルクス資本論の詳細な解説書を上梓していたが、ここにも日本共産党の基本思想が依然としてマルクスにあることが如実に示されている。

 マルクスの資本論が偉大な古典であることは間違いない。だがそれはアダム・スミスの国富論がそうであるのと同じだ。産業が高度に発達して、個人資本家がほとんど消え企業は株式会社に移行し、労働者の政治的な発言力が増大した現代、マルクスの資本主義分析と革命理論の多くは不適切なものとなっている。いや、そもそも、あらゆる学問がそうであるように、経済学という学問の興隆期の著作であるマルクスの資本論には初めから多くの難点が含まれていた。資本論の核をなす労働価値説や剰余価値理論は示唆に富む理論であるが正しいとは言い難い。マルクスはその膨大な著作で個人の観念や行動を重視する立場をブルジョアイデオロギーとして退け、社会関係を重視する立場を打ち出した。このこと自体は正しい。だがそれにも拘わらず、個別の労働ではなく社会的な労働が問題であると説明されているとは言え、労働時間で価値が決まるという労働価値説は、価値の個人主義的・実体論的な把握を超えていない。労働者が社会を支えており、労働者こそ社会の主人公であるべきだというマルクスの倫理観が商品の価値分析において労働の役割を過大評価することに繋がったのだろう。だが社会科学においては倫理観と学問的な分析を峻別することは困難だとしても、一定の客観的な性格を持つべき学問とそれを基礎とする社会運動にとって、マルクスの資本主義分析は不完全だったと言わなくてはならない。

 世界全体をみれば、先進資本主義国の大企業を中心とする資本家階級が発展途上国の労働者階級を搾取しているという構図に変わりはないと一部のマルクス主義者は主張する。だが発展途上国の貧困を専ら資本主義というシステムの責任だと考えることはできない。資本主義的なシステムを取り入れた中国やインドなどが目覚しい経済発展を遂げていること、発展途上国の多くで貧困の原因が資本主義的搾取よりも政治的な不安定、戦争や内戦などにあること、こういう事実を考えたとき、世界規模での資本家階級による労働者階級の搾取という図式は一面的なものでしかなく、世界の現状を説明し改革の提言をするための基礎理論にはならない。−ただし資本主義に責任がないと言うのではない。−

 こういう国内外の環境を鑑みるとき、日本共産党が、国内の労働者と発展途上国の貧しい人々のことを本気で考えるつもりがあるのであれば、マルクスの思想に一定の意義を認めつつも、そこから抜本的に脱却する道を探る必要がある。そのためには「共産党」という党名の変更から始めて、新しい思想と運動方針を確立することが不可欠の条件となるのではないだろうか。

(H19/4/23記)


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