☆ 人はなぜ暴力を振るうのか ☆

井出薫

 伊藤長崎市長が銃弾に倒れ亡くなった。心からご冥福をお祈りしたい。

 犯人は指定暴力団の組長代行。動機は定かではないが、政治的な背景はなさそうだ。自動車損傷への対応、関係企業の入札からの排除などが原因と報道されているが、常識からすると殺人まで犯す理由には思えない。

 人はなぜ暴力を振るうのだろう。自分の生命を守るためにやむなく行使される暴力がある。拳銃を乱射している者から市民を守るために警察官が犯人を射殺することもある。このような場合は正当防衛として容認される。教育的な指導のために一定の範囲で暴力が容認される場合もある。だが今回の事件のように暴力に訴えることに何の正当性も見当たらないことが多い。

 暴力が行使される条件は二つある。激情と暴力遂行の手段の二つだ。冷静に計算されたうえで遂行される暴力もあるが、その背景には必ず他者や社会への憎しみなど激情が秘められている。だが現代においてより重要なのは暴力の手段だ。組長代行は拳銃を所持していた。もし拳銃を所持していなかったら素手で市長に殴りかかっていただろうか。おそらく遣っていない。電話やメールで脅すくらいで終わっていた。

 人は拳銃のような暴力を振るう格好の手段を有していると自分が強くなったように錯覚して、それなしではけっして実行することがないような犯罪行為に走ることがある。アメリカの大学で32名を射殺した学生も同じではないだろうか。

 個人と国家は違う。国家が有する暴力手段はその行使に多数の人間が関与しており、簡単には発動されない。民主的な国では国民の世論も無視できない。また関与している個人が自分の力と錯覚することも少ない。だがアメリカのイラク攻撃などはアメリカが圧倒的な軍事力を保持していたことが引き金になっている。核兵器保有国がすでに7カ国も存在するにも拘わらず、北朝鮮の核兵器開発が殊更脅威に感じられるのも、北朝鮮は他の国より暴力発動に関与する者が少数で、その少数者の判断だけで暴力行為が決行されてしまう危険性が高いからだ。

 国民投票法の成立が確実な状況で、憲法第9条の改正が現実的な政治課題になってきている。日本は戦後一貫して憲法第9条の制約により軍事力強化に歯止めを掛けてきた。国際貢献、対米関係の維持発展というお題目の下に、憲法を改正して軍事力強化の地均しをしようとする者達が勢力を伸ばしている。戦争体験の風化、近隣諸国の経済発展や北朝鮮の核兵器開発への危機感などから、国民の間でも憲法改正、軍事力強化を容認する雰囲気が広まっている。

 あくまでも自衛と国際貢献のためだと改憲派は主張する。だが暴力の手段を強化すれば、それに物を言わせようとする誘惑は必然的に強まる。なければ何もしないで済んだところが、済まなくなることがありえる。確かに日本は独裁国と比較すれば暴力装置の発動に関与する者は多くしかも世論も無視できない。だが欧米に較べて日本は世論の多様性に乏しく、健全な懐疑精神を涵養して深く思索するという思想的伝統を欠いている。だから一つの見解に国民の大多数が短絡的にコミットして大きな潮流になるという傾向が強い。憲法第9条の歯止めがなくなったときに、果たして専守防衛に徹することができるのか甚だ疑問だ。

 被爆地長崎の市長射殺事件を教訓として、個人でも国家でも暴力の手段は可能な限り少ないほうがよいことを肝に銘じておきたい。

(H19/4/18記)


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