☆ 私たちは本当に自由なのか ☆

井出薫

 北朝鮮や戦前の日本と較べて、今の日本は自由な国だと誰もが考えている。だが私たちは本当に自由なのだろうか。

 人前で首相の批判をしても逮捕されることはない。しかし首相が憲法第9条の改正を強行しても、私には対抗する手段はない。できたとしても日本と首相を扱き下ろすくらいだ。法的には特別の理由がない限り会社員は自由に会社を辞めることができる。ところが現実には会社を簡単に辞めることなどできない。賑わっている飲み屋に行くと、どこかの席で会社など辞めてやるという喚き声を聞くことがあるが、辞められないからこそ飲み屋で愚痴をもらしている。

 今の日本には人々の不平不満をガス抜きする仕組みが揃っている。しかしガス抜きする仕組みは一般市民が独自に考案したものではなく、権力を有する者から与えられたものがほとんどだ。かつて正力松太郎氏は日本が共産主義者の手に落ちることを防ぐには国民に夢を与えるものが必要だと考え、プロ野球と巨人軍を国民的人気スポーツ、人気チームに育て上げた。その中心にいた長嶋茂雄氏は若い頃「社会主義になるとプロ野球ができなくなるから困る」と言ったことがある。巨人や長嶋だけではない、力道山、大鵬などスポーツ界のヒーロー、銀幕のスターが大衆に夢を与え、人々は現実の苦しさを彼らの活躍に熱狂することで解消した。彼らスターたち自身たとえば力道山などはけっして体制派の人間ではなかったが、娯楽の中で人々は無意識のうちに資本主義体制に順応して、その一方で共産主義や社会主義は一部の捻くれた文化人の玩具となりはて国民から見捨てられた。

 戦後の貧しく辛い時代が終わり、共産主義が脅威でなくなった現代でも、この構図は変わっていない。松坂などスポーツ界のヒーロー、ヒロイン、国内外の映画・ドラマのスターの活躍に現代人も熱狂して憂さを晴らしている。私たちを熱狂させるスター達は一般市民が作り出したものではなく、マスメディアが体制側の容認と支援を受けて作り出したものだ。しかも松坂の例で明らかなとおり、そこには露骨とも言える市場原理が働いている。甲子園のヒーローだった松坂は確かに大リーグに渡る前から人気選手だった。だがこれほどまでに人々の注目を集めることになったのは、ポスティングの60億円とNHKを中心とする過剰なまでのマスコミの松坂報道によるところが大きい。実際、西武の松坂を観たことがない人まで大リーグ登板の試合は観ている。

 私たち日本人は、こうして、体制側が用意した玩具と戯れることで、北朝鮮や戦前の日本の人々よりも自由だと信じ込んでいる。だが、ガス抜きができても自由だということにはならない。真摯に社会改革を試みる者、勤め先の企業と対決しようとする者には茨の道が待っている。本気で抵抗する者に対する体制側(並びに国民)の圧力は巨大だ。その圧力に抵抗するには、マスメディア、巨大宗教団体、共産党などそれ自身が一種の権力機構である団体に帰依するしかない。だが今度はその組織の中で忠誠を強いられ、そこでの公然たる批判はタブーとなる。

 従順な一般市民の運命も大して変わらない。過労死が後を絶たないが、人々が自由ならばこういう悲劇はおきないはずだ。日本郵政株式会社の社外取締役を兼ねる某派遣会社の社長が「過労死は自己管理の問題だ」と無責任極まりない発言をしたが、こういう人物が日本郵政株式会社の社外取締役を務めているという現実を私たちはどうすることもできない。

 今の日本は本当に北朝鮮や戦前の日本よりも自由で幸福なのか一度よく考えてみた方がよい。もちろん筆者とて現在の北朝鮮や戦前の日本で暮らすよりは今の日本で暮らすことを望むし、今の日本の方が自由だという意見に反対するつもりはない。だが、私たちが信じているほど差はないかもしれないし、そう信じているのは私たちが今の日本しか知らないからかもしれないのだ。

 かつて、社会改革を求める市民の広く緩やかな連帯という理念が掲げられ、既成の左翼政党とは一線を画した新しい社会改革の運動が提唱され注目された時期があった。だがバブル期を境に、あからさまな市場競争至上主義が台頭し、人々は拝金主義に染まり、こういう運動は発展の機会を失ってしまった。だが、市場では私たちは労働力という商品でしかない。そこでの自由や幸福は需要供給関係に還元される危ういものに過ぎない。人々が自由で幸福な生活を実現するためには改革運動の再興が不可欠なのだ。そのことを思い出すためにも、日本人は今本当に自由なのかをよく考える必要がある。

(H19/4/15記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.