☆ 湯川博士生誕100年 ☆

井出薫

 1月23日、原子核の核力の仕組みを解明して日本人で初めてノーベル賞(1949年)を受賞した湯川秀樹博士の生誕100年を迎えた。

 湯川博士のノーベル賞受賞は敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気と大いなる希望を与えた。しかも、日本人の心に希望の光を灯しただけではなく、核力の謎を解明した博士の中間子理論(1934年発表)は現代素粒子論の幕開けとなる歴史上燦然たる偉業であった。たとえば科学史上の最も偉大な発見・発明を100選ぶとしたら、湯川博士の中間子理論は間違いなくその一つとして選ばれる。−他の日本人受賞者でベスト100に入るとしたら利根川進博士の遺伝子組み換えが思い浮かぶが当落線上だろう。他の受賞者は残念ながら100に絞り込んだら選ばれない。−

 原子核は陽子と中性子からできている。たとえば、ヘリウムは陽子2個と中性子2個、酸素は陽子8個と中性子8個からなる。謎はプラスの電荷を持つ陽子同士が電気的に反発し合うのに、どうして原子核は安定していられるのかということだ。当時その存在が知られていた素粒子は、電子、陽子、中間子とその反粒子、電磁波の正体である光子だけで、物理的な相互作用は、天体の運動を支配する重力相互作用と電磁相互作用が知られているに過ぎなかった。そして、これ以外の素粒子や相互作用が存在していると考えている者はほとんどいなかった。

 なぜ新しい素粒子と相互作用の存在に専門家は否定的だったのだろうか。それは、陽子間の電気的反発力を凌ぐほど強い引力を持つ相互作用があるとすれば、すでに発見されているはずだと考えたからだ。確かに強い力ほど見つかりやすい。だから未発見の強い力などあるはずはないと考えるのは当然だ。20世紀を代表する物理学者の一人、ボーアですら、湯川の考えを聞いたとき、極めて否定的に「君は新しい物が好きか?」とコメントしたという。

 重力相互作用では駄目だろうか。重力は電磁気力と違い引力だけで反発力がないので、巨大な質量を持つ天体現象では最も重要な働きをなすが、私たちの日常生活では電磁気力よりも遙かに弱い取るに足らない力でしかなく、ミクロの世界の陽子と中間子を結合させることはできない。だから、どうしても、未知の相互作用があると考えるしかない。そして相互作用には必ずそれを媒介する素粒子が存在するから未発見の素粒子があるに違いない。しかし、それは物理学の常識とは合致しない。

 だが、今までに発見されていないというところに実は問題を解く鍵があった。そして、悩みに悩んだ末に、湯川博士は遂にその答えに到達した。未知の相互作用は重力や電磁気力と違い短距離力だと考えればよいのだ。つまり、核力を生み出す相互作用は、逆二乗則に従う重力や電磁気力と異なり、距離が長くなるに従い逆二乗則よりももっと急速に減少すると考えれば謎は解ける。素粒子程度のスケールでしか威力を発揮しない短距離力ならば、これまで発見されていないのは当然だ。

 謎の半分は解けた。あとは、その短距離力を媒介する素粒子はどのような性質を持つかを解明すればよい。電磁気力を媒介する光子は静止質量がゼロ。だからこそ逆二乗則に従う長距離力となり日常生活で活躍するマクロの力となる。だとすれば、核力を媒介する素粒子は有限の静止質量を持つに違いない。量子論の基礎である不確定性原理によれば、ごく短い時間であれば有限の質量を持つ素粒子が世界に突然現れることができる。だが有限の質量を持つためにこの素粒子は長い時間存在することはできない。許された短い時間内に別の素粒子に吸収されなくてはならないのだ。こういう性質の素粒子が存在すると仮定すれば、核力の謎はすべて説明できる。この素粒子の静止質量(並びにスピンなど他の性質)は核力の実験データと量子論から計算できる。後はπ中間子と名付けられたこの新素粒子を実験や観測で発見すればよい。それでこの理論の正しさは証明される。

 これが湯川博士の発見だった。現代の素粒子論を常識とする者には当たり前のことに過ぎないと思えるかもしれない。だが、既知の素粒子と相互作用がすべてだと思いこんでいた当時の物理学者にとって、それは常識を根底から覆す主張だった。その当時としては、湯川理論は相対論や量子論に匹敵する驚異的な存在だったのだ。事実、理論的には完璧であるにも拘わらず、湯川博士が計算した通りの質量を持つ素粒子が発見されるまで、ボーアに限らず多くの優秀な物理学者が湯川理論に疑いの目を向けていた。

 だが、1947年遂にイギリスの物理学者たちがπ中間子を発見した。湯川博士の考えは正しかったのだ。

 湯川博士の発見とその検証により、物理学は現代的な素粒子論の時代へと突入する。それ以来、次々と新しい素粒子が発見され、相互作用も重力相互作用と電磁相互作用だけではなく、核力を含むハドロンと呼ばれる素粒子群に係わる強い相互作用、ベータ崩壊などと係わる弱い相互作用が発見され、4つの相互作用が物理世界の基礎であることが分かっている。さらに、その流れを受けて、いまやすべての相互作用と素粒子を統一する理論−それは一般相対論を包含する宇宙全体の理論でもある−を目指すところまで物理学は進歩した。

 湯川博士が発見したπ中間子は基礎的な素粒子ではなく、より基礎的な素粒子であるクォークの複合体であることが今では分かっている。原子核内の陽子・中性子を結合させる力は基礎的な相互作用ではなく、グルーオンという素粒子が媒介する強い相互作用の二次的な現象であることが証明されている。その意味では、博士の理論は素粒子の基礎的な理論とは言えない。だが、湯川秀樹という偉大なる開拓者がいなければ、人々は未だに陽子、中性子、電子、光子だけの世界をさまよっていたかもしれない。小柴博士による超新星爆発によるニュートリノ発見など全く考えられもしなかっただろう。

 もちろん(哲学者は否定するかもしれないが)物理学は客観的な自然界の客観的な理論だ。だから湯川博士が中間子理論を発見しなくても、世界の誰かがそれを発見し、素粒子物理学の時代の幕を開いただろう。だがその歩みは10年以上遅れていたのではないだろうか。

 我らの先輩が、それも戦前の苦しい時代に、このような人類史に残る偉業を成し遂げたことは、日本人として一寸ばかり自慢しても良いだろう。少なくとも、日本人は、そして有色人種は、けっして白人に知能で劣っていないことを博士は証明した。有色人種だって、ニュートンやアインシュタインやガウスを生み出すことができるのだ。

 改めて湯川秀樹博士の偉大なる業績を称えたい。

(H19/1/29記)


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