井出薫
ユビキタスという言葉が流行っている。KDDIの小野寺社長など講演があるごとにユビキタス、ユビキタスと唱えておられる。ユビキタスはユートピアを実現する魔法の言葉らしい。 いつでも、どこでも、コンピュータやネットワークが使えれば便利だろう。携帯電話やPDAを持ってさえいれば、現金やカードを持ち歩かなくても、駅の改札を通過でき、どこでも買い物ができ、電車やバスの運行状況や道路の込み具合が一瞬で把握できる。こんな社会がくればさぞ便利だろうと思う。 実際、こういう社会は、すぐ傍まで来ている。セキュリティ、料金収納の方法など多くの課題が残されているが、技術的にはいますぐにでも実現可能だ。ユビキタス社会が現実になる日は近い。 だが、ユビキタス社会がユートピアかというとはなはだ疑問だ。電車の中で周囲の迷惑を顧みず、メールの送受信に夢中になっている人たちをみると、ユビキタス社会になったらどうなるのか心配になる。街を行く人がみな周りに目もくれないで携帯端末を眺めながら歩いている姿が目に浮かぶ。ぞっとしない。いっそのこと、人間の身体もすべて電子機器に取り替えたらどうか。 もう一つ心配なのは、大部分の人が技術に無関心なことだ。自動車の仕組みを知らなくても運転はできる。だが、自動車の普及とともに都会では綺麗な空気は永遠に失われた。文明の利器は必ず何かを破壊する。ユビキタス社会では何が失われるだろうか。こういうことを考える人は少ない。技術の専門家は自分の儲けがかかっているので悪いことは言わない。素人は能天気に着メロやメールの絵文字で喜んでいる。 ユビキタス社会は悪くない。だが、冷静な目で何が起きるか考える賢者が必要だ。 |