井出薫
ネイチャー12月14日号に掲載された論文で、ごくわずかだが先天的に痛みを全く感じない人がいて、その原因となる遺伝子とメカニズムが明らかになったと報告されている。痛みを感じない人々は、知能は正常、外傷や感染症に気付かないことがあり症状が悪化する危険性があるものの、それを除けば健康だという。つまり痛みを感じないだけで普通の人と変わらない。それにしても、ごくわずかと言っても、一つの遺伝子に変異が起きることで痛みを感じなくなるというのは驚きだ。 著者たちは、科学者らしく、自分達の研究は副作用のない鎮痛剤を開発するのに役立つだろうという控えめな言葉で締め括っているが、この論文の持つ意味はもっと大きい。 人は機械の一種か?という問いがしばしば発せられる。答えは機械の定義により変わってくるが、私たちの常識は、人間は機械とは全く異質な存在だというものだろう。しかし、遺伝子一つに変異が起きるだけで痛みを感じなくなると言われると自信がなくなる。「ドライバソフトがインストールされていないから、スキャナがパソコンで認識されない」と言うのとほとんど同じような気がしてくる。痛みを感じない人々の存在とその生理学的なメカニズムを考えるとき、人間と機械との関係は考え直さなくてはならないと思えてくる。 「痛み」という言葉をこの人たちは理解できるだろうか。痛みを感じないと言っても、感覚が完全に欠如しているわけではなく、身体の不調にも気付く。だから、「痛み」という言葉を覚えることはさほど困難ではないだろう。だが「心の痛み」はどうだろう。「心の痛み」は「傷の痛み」とは全く違う。「心が痛む」とはどこが痛むのかと聞かれても、誰も正確には答えられない。「心の痛み」、「心が痛む」は比喩的な表現に過ぎない。しかし、このような比喩的な表現を違和感なく使えるのは、傷の痛み、歯痛、腹痛などを日頃体験しているからで、痛みを感じない人は、論理的に考えることでこれらの表現を使いこなせるようにはなっても、違和感なく使うことは難しいだろう。 人間は、できる限り痛みを感じないで済むように文明を発達させてきた。やがて、いま以上に生活環境が快適になり、痛みを感じる機会が少なくなると、痛みを感じる機能が退化する可能性がある。過去そして現在の人類にとっては、痛みを感じることは身体の異常を検知して迅速かつ適切な処置を取るために不可欠だが、痛みを感じる機会がごく希になると、痛みを感じない方が心の乱れを小さくできるから有利になる。文明の発達で、自然淘汰の結果、痛みを感じない者が生き残ることもありえるのだ。いじめが原因で自殺した児童が、痛みを感じない体質だったら、自殺をすることはなかったと思う。私たちの文明はすでにそういう段階に差し掛かっているのかもしれない。 |