井出薫
北海道滝川市教育委員会は、昨年9月に自殺した小学6年生の女児に対するいじめをいまだに認めようとしない。遺書を読めば、少女が同級生達のシカト(無視)に長い間苦しんでいたことがはっきり分かる。この明白な事実を何故正面から受け止めようとしないのか。 いじめは本質的に虐められている本人の主観の問題だ。目に見える物理的な暴力はなくとも、日々の学校生活で少女は傷ついていた。虐めている側には虐めているという意識はなかったかもしれない。「だって、あいつ、キモイ、だから付き合わない」というくらいの軽い気持ちだったかもしれない。しかし、挨拶をしても返事をしてもらえず、話しの輪に入っていこうとすると、皆がその場から立ち去ってしまう。そんな目にあったら、どんなに辛いことだろう。物理的な暴力を奮われているわけではないから、教師にも親にも訴えにくい。訴えれば益々立場が悪くなる。だから自分一人で悩み苦しむことになる。明白な加害者はいなくても、これは立派ないじめなのだ。これをいじめと認めることができなければ、いじめの問題は永久に解決されない。教育委員会は「加害者と言える者はいないが、確かにいじめがあった。同じ不幸が繰り返されないように対策を真摯に検討、実行する」と答え、具体的な取組を開始するべきだ。 今回の事件からはっきり言えることがある。人として他人の苦しみや痛みを理解することが何よりも大切だということだ。子供の世界だけではなく大人の世界でも人の苦しみを理解できない者が多い(筆者も人のことは言えない)。それが、年間3万人もの自殺者を生みだし、精神的なトラブルが原因で職場から離れている者が無数に存在し、苦しんでいる幼い魂が放置される原因になっている。 教育の場で、教師が、まず自分自身が生徒の苦しみを理解できる人間になるよう励み、生徒達に級友の苦しみを理解できる人間になることが何よりも大切であることを教えていかなくてはならない。そして、教育委員会はそれを教育の第一の目標とし、教師や学校、父母達を支援する。これがあるべき姿だ。国旗や国歌に敬意を表するとか、郷土を愛する気持ちを育てるなどということは二次的な問題でしかない。 |