井出薫
植物状態にある患者の意識水準は、ないと言ってもよいほどに極めて低く、患者は人格存在とは言い難い。それゆえ、このような患者をいつまでも生命維持装置で機械的に生かしておくことは却って人倫に反するのではないか。こういう議論がある。ところが、最新の知見によると、植物状態患者には予想以上に高い水準の意識があるらしい。(サイエンス9月8日号、ネイチャー9月14日号など参照) これが事実ならば、これまでの議論は抜本的に見直す必要が生じてくる。健常者と比較して低い水準だとは言え、植物状態患者は自己と自己の置かれている状況についてある程度の認識を有している可能性がある。だとすると、患者は間違いなく人格的存在者として生存しており、その生命を維持することはけっして無意味ではなく人倫に反することでもない。寧ろ治療を患者の意思に関わりなく停止することこそが問題となる。 とは言え、相当程度の意識が存在するとしても、現在の医療では、残念ながら外的反応を示すことができる水準まで回復する可能性は薄い。こうなると、植物状態患者の生命を維持するかどうかは経済の問題と関わってくる。人格的存在者を勝手に死に至らしめることは倫理的に容認できないとしても、現実には経済的な負担を無視することはできない。 科学の発展は多くの利益を人々にもたらしてきたが、その一方で様々な解決困難な副産物を生み出した。植物状態患者もその一例と言えるだろう。ただ、確実に言えることは自然科学、技術、医学、倫理学、経済学、これらの学問はもはや独立した学科と考えるわけにはいかないということだ。科学者も、技術者も、哲学者も、経済学者も自分の専門領域に閉じこもっていることは許されない時代となっている。 |