井出薫
真実などないという意見もあるが、根も葉もない噂と真実と思える話とでは違いがあることは誰でも認めるだろう。徹底的な懐疑主義の哲学者だって認めるはずだ。さもないと、何かを語ることは意味がなくなる。 「北朝鮮が送ってきた横田めぐみさんのものと称する遺骨は、DNA鑑定の結果、別人のものと判明した」と日本政府は発表したが、その信憑性にはかなり疑問がある。英国科学誌ネイチャーは、2月3日号で、DNA鑑定の結果は横田めぐみさんの遺骨ではないことを証明するものではないと論じている。−同誌の日本語ページで記事の日本語版を読むことができる。−記事によると、鑑定を担当した帝京大学の専門家も鑑定結果が100%正しいとは言えないと認めているとのことだ。 幾ら権威があるとは言え、ネイチャー誌が常に信用できるとは限らない。今ではエセ科学の博物館に陳列されているような論文がネイチャー誌に堂々と掲載されたこともある。だが同誌の評論を無視することはできない。 千度を超える熱で焼かれた骨からDNAが本当に検出できるのか、検出できたとしてもそれが別人のDNAが紛れ込んだものではないことを証明できるのか、素人でも疑問を感じる。なのに政府は断言した。「あれはめぐみさんの骨ではない」と。だが、本当のところは、「遺骨からミトコンドリアDNAの断片が見つかったが、横田めぐみさんのものとは一致しない。ただしDNAが他から紛れ込んだ可能性や鑑定結果が間違っている可能性は否定しきれない。従って、遺骨がめぐみさん本人のものだと証明することはできない。」ということではなかったのか。 データを捏造したなどとは言わない。それほど今の日本が酷い国だとは思っていない。だが、北朝鮮を敵視する余り、真実を冷静に見極める気持ちを失ってはいないだろうか。確かに北朝鮮政府の態度には矛盾や不誠実が目立つ。だからと言って、こちらも何をしても良いというわけではない。拉致被害者やその家族の辛い気持ちを考えると、骨は別人のものだったと信じたくなるのも分かる。勿論、北朝鮮政府が虚偽を語っており、めぐみさんが生存している可能性はある。日本政府にはとことん事実を追及することが求められる。だが、そのためにも、冷静に事実を認識して、冷静に話し合いを進めていくことが不可欠だ。もし今回のDNA鑑定が日本国内の刑事事件に関わるものだったとしたら、鑑定結果は確証にはならない。相手が北朝鮮政府だからと言って、曖昧な証拠を基に一方的に有罪宣告するべきではない。 マスコミの報道にも問題があった。DNA鑑定の結果が発表されたとき、筆者の知る限り、大手マスコミで疑念を表明したところはなく、横田めぐみさんの骨ではないことが判明したと断定的に報道したと記憶する。 筆者も日本人として、多くの日本人が北朝鮮政府の態度に腹を立てるのは分かる。報道機関が拉致被害者やその家族に配慮するのも分かる。いまさら、鑑定結果を疑問視しても、拉致被害者とその家族を悲しませ、北朝鮮を利するだけだと言うのも分からないでもない。だからと言って、灰色を黒だ白だと断定したり、黒や白を灰色だと誤魔化したりすることを認めるわけにはいかない。マスコミには非難を怖れず真実の追究が強く求められる。 戦後の日本は戦前と較べれば遥かに民主化され、人権も保護されるようになった。それを否定する気はさらさらない。だが、真実が堂々と語られるようになったとは言い難い。依然として真実を語ることは困難なのだ。 それは、アメリカでも、韓国でも、中国でも変わらない。真実がすべて明らかにされている国などどこにもないのかもしれない。だが、そのことが、人々が無用な争いを引き起こす原因になっている。竹島=独島というちっぽけな島を巡って、どうして日本と韓国の人々が斯くも激しくいがみ合うことになるのか。どうして多数の死者を出すことが明白だったイラク戦争に過半数の米国国民が賛成したのか。どうして突然中国国民の間で日本製品ボイコット運動が勃発するのか。それは、日本、韓国、中国、アメリカ、これらの国で真実が語られていないからだ。真実を語ることができれば、問題解決の道は拓けるはずなのに。 確かに真実を見極めて、それを語るのは難しい。真実を拒み怖れるのは権力者だけとは限らない。国民自身が真実を知ろうとしない、いや、寧ろ積極的に虚偽を信じようとすることが少なくない。「偉大なる我が祖国、我が民族」という幻想にしがみ付く人はどこにでもたくさん居る。だから、本当に真実を語ろうとする者は、権力だけではなく、ときには一般大衆も敵に回さなくてはならない。いや、寧ろ一般大衆こそ真実の最大の敵なのだろう。多くの偉大な哲学者が自分を理解する者はごく少数だと語ってきた。それは民主化された社会でも変わらない。現代でも、おそらく人々はイエスやソクラテスを処刑して、ブッダやムハンマドを迫害するだろう。 私たちはソクラテスのように賢くないし、真実のためには死を選んでも悔いはないというほどの勇気もない。もちろん筆者も同じだ。だが真実を見極め、語る努力なくして前進はない。少なくとも、冷静に真実を探し求めていく気持ちだけは持ち続けたい。 |