☆ 企業と株主 ☆

井出薫

 最近やたらと企業の所有者は株主だと言われるようになった。確かに法的な所有権は株主にある。しかし、現代において、企業の第一の責務は株主に奉仕することではなく社会に貢献することにあるはずだ。では、企業と株主はどのような関係にあることが望ましいのだろうか。

 企業が大切にしなくてはならないものは4つある。株主、顧客、従業員、社会(国家と世界)の4つだ。このうち、企業の所有者である株主が企業にとって最も重要だという考えもあるだろうが、企業とは株主のために存在しているのではなく、社会を維持発展させるために存在していると考えなくてはならない。だとすると、企業が第一に考えなくてはならないのは株主ではなく社会となる。そして、その後に、社会的重要度を考慮して、順に顧客、従業員、株主と続くとみるのが妥当だろう。

 日本の企業は株主を軽視してきたと言われるが、そのこと自体は悪いことではない。社会的な存在である企業にとって株主の重要度は低いからだ。日本企業の問題は、株主を軽視してきたことではなく、経営を監視する機能が弱く、経営者が経営責任を取ろうとせず、マスコミ関係者以外は経営責任を追及することすらできないというところにあった。経営者はマスコミさえ抱き込むことができれば、遣りたい放題だった。堤義明氏を中心とする西武グループの前近代的な経営とその反社会的行為、経営権を巡るフジ・サンケイグループとライブドアの社会や顧客を無視した低次元な争い、電力会社の事故隠蔽などに代表される同じ過ちがいつまで経っても繰り返されるという日本企業の閉鎖的・官僚的体質、このような前近代的な企業体質からの脱却こそが日本企業の喫緊の課題なのだ。企業買収対策とか配当云々は二次的な問題に過ぎない。

 この課題を遂行するために、株主の役割がある。株主には、自分の資産を増やすという狭い視点ではなく、国民の代表として企業経営を監視し情報公開を徹底させるという役割が求められている。

 アダム・スミスは自由主義経済を擁護して利潤を求める市場競争を全面的に肯定した。だが、スミスは利潤や競争を目的としたのではない。利潤を求めて競争することが結果的に社会の福祉を増進することになると考えたから利潤を求める市場競争を支持したのだ。スミスの目標は豊かで人々が幸福に暮らす社会の実現であり、競争は手段に過ぎず、利潤は一つの指標に過ぎない。しかも、スミスは、その一方で、人々の公徳心が廃れたとき競争が社会に悲惨をもたらすことに気付いており、道徳の重要性を説いている。

 マルクスは、利潤を求める資本家達の冷酷が労働者を痛めつけていることを告発して、資本主義の崩壊と社会主義・共産主義誕生を予言した。マルクスの予言は的中しなかったが、利潤を求める競争が、その内的な論理に従って社会の多数を貧しく不幸にすることがあることを指摘した点でマルクスが正しかったことは疑いようがない。

 スミスやマルクスの経済理論はいまでは時代遅れかもしれないが、その精神は今でもすこしも色褪せていない。いや、人間の経済活動が地球的規模になった現在こそ、彼ら偉大なる先哲の教えに耳を傾けなくてはならない。ただ競争をしていれば、効率的な生産ができるようになり、人々が豊かになるなどという途轍もない楽観論が蔓延しているようだが、そんなに上手くいくはずがない。環境問題や資源問題の解決のめどが立たず、発展途上国の貧困が解消されず、豊かになったはずなのに先進国の人間の精神的荒廃は解消されたどころか寧ろ深まっている、こういう現実を考えれば、利潤追求第一主義・自由競争至上主義では駄目であることは明白だ。

 株主を大切にする。それは契約関係、所有関係から言って当然のことだ。だが、その目的とするところが、利潤の増大と自由競争促進だけだとすると、それは社会の利益に繋がらない。株主を何より大切にするはずのアメリカで、エンロンのような大規模な不正が次々と発覚したことからもそれが分かる。資産家の利益を守るためだけの株主重視は所詮支配階級の既得権益を守ることだけに終わる。

 これからの企業は、そんなことのために株主を重視する必要はない。配当を増やすよりも商品を安くすること、従業員の給与を上げることのほうがよほど社会にとって役に立つ。ただ漠然とアメリカを模倣するのではなく、何が企業と株主に求められているのかよく考えて、正しい経営と株主の関係を構築することが求められている。そのことを忘れてはならない。

(H17/3/27記)


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