☆ 死刑廃止論 ☆

井出薫


 死刑廃止に対する反対意見は根強い。確かに、営利誘拐のような非道な犯罪やオウム真理教のように一般市民を狙った無差別テロに対しては死刑もやむを得ないという思いはある。だが、死刑は廃止するべきだと考える。

 死刑に反対する論拠は二つある。一つは死刑が野蛮な刑罰を否定した近代法に反するというものであり、もう一つは人のやることである以上誤審の可能性があるというものだ。

 死刑廃止論を支持する法律専門家は二番目の理由を重視する。実務に携わる者として、誤審の可能性を常に意識せざるをえないからだろう。だが、死刑ではなく有期あるいは無期の懲役が宣告・執行され、獄死したのち無罪であることが判明したということもありえるから、誤審の可能性だけでは廃止論の根拠としては弱いように感じる。獄死は予期できぬ事象、死刑による死は予期された事象だから両者を混同する議論は間違いだと法律家には反論されるだろうが、冤罪で死んでいく者の側に立てば違いはないように思われる。それに、誤審の可能性があるから死刑は駄目だと言うなら、極めて確率は低いがアナフィラキーショックで死亡する可能性があるから予防接種を禁止するべきだという議論も成り立つことになるのではなかろうか。

 人間のやることだからミスや予測がつかないことは常に起こりうる。だから、利益と損害の比較考量により実施の是非を決めるしかない。犯罪防止、遺族を含めた被害者の精神的なケアの面などから死刑の社会的利益が、誤審による社会的損害より大きいと認定されれば、死刑は肯定されることになる。審理を慎重に進め、三審制や再審請求制度を適切に運用すれば誤審の確率は限りなく小さくできるだろう。そもそも、死刑判決だけではなく判決に誤りがあってはならないのだ。しかも、誤審の危険性を過大評価すると、いかなる刑罰も不可能になるように思われる。無実の者が獄死を遂げることが常にありえるからだ。

 だが、死刑に社会的利益があるのだろうか。いかに確率を小さく出来るとはいえ誤審の可能性はゼロにならない。死刑が執行されてから誤審であることが判明したらどうしようもない。死刑を宣告されるような罪を犯した者には厳しい処罰が下されるべきだが、その命を奪うことまで許されるのか、死というとてつもない恐怖と苦痛を与えることが正当化されるのか。よほどの社会的利益があるのでない限り、死刑は容認できないはずだ。

 犯罪防止については言えば、死刑を廃止した国における凶悪犯罪の件数の推移を見る限り、その効果はほとんどないと推測される。日本社会と欧米社会の差を考慮に入れても、日本で死刑を廃止したら凶悪犯罪が増加するとは考えにくい。

 遺族の心情、これは無視できない。自分の子供を誘拐され殺されたら、親は犯人を死刑にしたいだろう。それは当然だ。筆者とて同じ思いだ。死刑廃止に反対する人たちの根拠もここにある。死刑執行で被害者が救われるならば死刑もやむを得ない。犯罪者より被害者の利益が優先されるべきだからだ。だが、本当にそうなのだろうか。死刑が執行されれば少しは恨みが晴れるかもしれない。だが、それでも悲しみや悔しさが消えるわけではない。経済的損害が補償されるわけでもない。死刑執行の効果は極めて限定的・一時的である。それに被告を死刑にして欲しいと思う被害者は多数いるが、死刑になる犯罪者はほんの一部だ。死刑判決を得られなかった被害者は悔しい思いをし続けなくてはならない。

 死刑という制度があるから、被害者が被告に死刑を求める気持ちが起きている、という面もあるのではないだろうか。死刑が廃止され、最高刑が終身刑に変更され、その制度が浸透していけば、人々は死刑を求めなくなるのではないだろうか。

 死刑の存続あるいは廃止は、社会の慣習に関わることであり、人間の尊厳に関わることでもある。だから、専門家や一部の人間のイデオロギーで決めるべきことではない。日本人の多数が死刑存続を求めるのであれば、それを否定することはできない。

 今年(2004年)初め、シンガポールはアムネスティから国民一人当たりの死刑執行率が世界一だと非難された。だが、麻薬犯罪で辛酸を舐めてきた同国の歴史と、現在の治安の良さなどを考慮すると、この非難は一面的なものだと言わなくてはならない。さらに、世界各地特に発展途上国では、未だに法的な手続きもなしに虐殺・虐待されている人々が多数存在しているが、かつての植民地支配者である欧州各国にその責任なしとは言えない。それゆえ、歴史的背景などを考慮することなく、欧州の(一部の)人々が、シンガポールに限らず東南アジア諸国が死刑制度を維持していることを野蛮の記しであるかのごとく論じるのには疑問を感じる。筆者には、西洋中心主義がそこに潜んでいるように思える。

 とは言え、死刑の野蛮な性格、誤審の可能性、犯罪防止効果の否定などは、死刑の廃止が正しい道であることを示唆する。被害者の経済的・精神的援助の充実を図りながら、世論が変わるよう努力していくことが望まれる。 了

(H15/5/25記)
(H16/11/6改定)


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