☆ 帰国? ☆

井出薫

 5月22日、拉致被害者家族5人が首相と共に帰国した。首相訪朝の成果については色々と意見の分かれるところだが、素直に家族の再会を祝福したい。

 だが、5人にとって、これは「帰国」なのだろうか。生まれ育った地を離れ日本に行くのだ。家族と再会できる喜びより異国の地である日本に行くことの不安の方が大きいのではないだろうか。

 政治に翻弄される人々の悲しみが伝わってくるようだ。金政権は日本の経済支援を獲得し、小泉政権は拉致被害者家族の帰国を実現して、それぞれ(短期的?な)政権基盤強化を果たすことができただろう。だが、そこにあるのは政治的な思惑だけで、拉致被害者やその家族の悲劇に対する謝罪の気持ちも、彼らの未来の幸福を祈る気持ちも伝わってこない。

 幾ら日本が戦前に朝鮮を侵略し酷い行為をしたからと言って、戦後に生まれ侵略行為に無関係の人たちを拉致することなど許されることではない。日本の侵略行為の謝罪と賠償は日本政府に要求するべきものであり、個々の日本人に求めるものではない。遺憾の意の表明くらいで拉致を過去のことにされては適わない。

 日本政府からも被害者家族への心からの配慮が感じられない。今回の唐突な首相訪朝も、結局のところ参議院選挙対策だったのではないかと思えてくる。自民党は、拉致事件解決に斯くも長期を要したことが旧社会党の責任であるかのごとく語ってきたが、政権政党である自民党の責任こそが追及されてしかるべきなのだ。それなのに、拉致問題を自分たちに都合の良いように利用するだけで、被害者側の立場に立って行動していない。

 しかしながら、「政治とはそういうものなのだ。政治の被害者に対して一々責任を感じていたのでは政治家は務まらない。数十人の被害者のために国家の大事を左右されるわけには行かない。金総書記も小泉首相も国家を指導する立場にある政治家として、その責務を果たしているだけなのだ。」こういう意見もあるだろう。

 筆者自身、それが現実なのだと思う。拉致被害者やその家族には同情するが、彼らの意見や感情だけに配慮して政治的決断をするわけにはいかない。
 被害者に同情する人は多いが、彼らを支援することが自分たちの不利益に繋がるという事態になっても、みんな彼らを最後まで支援し続けるのだろうか。おそらく多くの人は態度を変える。日本には、戦争中は「天皇陛下万歳」と喚きたて、戦争に負けると一転して「民主主義だ、社会主義だ」と叫んだ人がたくさんいた。イラクでも、戦争前は「フセイン万歳」、政権が倒れると「アメリカ万歳」、アメリカの支配が上手く行かないと再び「アメリカ帰れ」、こういう人がたくさんいるだろう。
 所詮、人の世とはそういうものだ。それは大衆の醜さであるし、同時に逞しさでもある。そして、政治はそういう世相を反映して動いていく。被害者は被害者である悲運に甘んじるしかない。

 とは言え、今の日本人は、北朝鮮やイラクの人々、戦前の日本人に較べれば、ずっと余力があるはずだ。政治に翻弄されている人々に配慮し、少しでいいから支援することができる人はたくさんいる。政治は所詮マクロでしか物をみない、いや見ることができない。だから、人々の幸福を実現するためには、政治に頼っているだけでは駄目だ。日本人一人一人が、自分と周囲の人々の幸福を実現するために何ができるか考え、それを実行していかなければならない。5人の帰国が本当の意味での帰国になるかどうか、それは政治の現場とは離れたところに居る私たちの配慮と行動で決まる。

(H16/5/23記)


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