☆ 科学とロマン ☆

井出薫

 「ヒッグス粒子が発見された。」と言うと、「何、それ?」と答える人がほとんどだろう。 ヒッグス粒子とは、素粒子の標準理論で存在が予言されているが、未発見の素粒子だ。

 もし、ヒッグス粒子の発見で日本人がノーベル賞を受賞したら、ヒッグス粒子の解説書が書店の本棚に並ぶだろう。だが、日本人がノーベル賞を取ろうが取るまいが、ヒッグス粒子の発見は素粒子論や宇宙論に決定的な影響を与えるノーベル賞級の業績だ。だが、その存在を知る人は少ない。

 誰も知らないヒッグス粒子を発見するために莫大な資金が使われていると知ったら、怒る人もいるだろう。NASAが「火星に水を発見した」と発表したとき、一部で「火星に水があっても人々の暮らしはよくならない。」という非難の声が上がった。ヒッグス粒子も同じで、発見されたところで生活に役立つわけではない。

 実用的な成果が期待できない科学研究にどこまで資金を投じてよいのか。これはなかなか難しい問題だ。宇宙の起源が分かっても、素粒子の究極理論が発見されても、貧しい人の生活が良くなるわけではない。

 だが、発展途上国でボランティア活動をしている人がこんな話しをしている。「食べるものにも不自由している人が、宇宙の話しを聞くと夢中になる。特に子供たちはそうだ。」

 宇宙や素粒子はものの役には立たないかもしれないがロマンがある。実用的な科学だけではなく、ロマンとしての科学も必要だろう。それに、研究そのものには実用性がなくても、研究の過程で実用的な技術が生まれることもある。カミオカンデで使用された高性能の光電子倍増管はその一例だ。

 とは言え、専門家と官僚の思惑だけで科学研究の予算が決まってしまう現状には課題が多い。広い視野で物を見ることが出来る人の登場が望まれる。

(H16/3/25記)


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