☆ 管理社会の恐怖は去ったのか ☆

井出薫

 支配者が人の心や言葉まで管理する未来社会を描いたオーウェルの小説「1984年」から20年が経過した。本に描かれたような恐怖政治は到来せず、先進資本主義国では人々は自由を謳歌しているようにみえる。

 だが、本当に危機は去ったのだろうか。ITやバイオ技術は国民を管理するための有効な手段だ。GPSを使って誰がどこにいるかを瞬時に把握できる。メールを分析して心の内部に立ち入ることも可能だ。「1984年」に描かれた社会は、現実の1984年時点では技術的な基盤がなかったために実現しなかった。しかし、いまや技術的な基盤は整った。

 「ありえない、権力者を含めて誰もそんなことを望んでいないし、それで利益を得る人間もいない。」現状をみれば、そう考えるのが普通かもしれない。だが不安は残る。

 世界を見渡せば、依然、独裁国家は少なくない。民主国家でも、新興宗教団体などに独裁的な組織が存在する。

 人は不安が募ると大きな力に頼りたくなる。最近の医療現場ではインフォームドコンセントが基本になっているが、重病になればなるほど、患者や家族の医師に対する依頼心が強くなると聞く。常に自分で自分を律していくことができるという強い人は少ない。不況が不吉なのは人間が弱いからだ。沈んだ心に、いつしか独裁の影が忍び寄ってくる。

 マスコミに、独裁に対する防波堤になることを期待したいのだが、甚だ心許ない。昨年来、創価学会と週刊新潮が激しい鍔迫り合いを演じているが、他のマスコミは口を噤んでいる。マスコミ仲間や大衆動員力のある組織の批判はできないという姿勢がみえみえだ。

 歴史は自然現象のように人間の意志にかかわりなく決まるものではない。だが、民主や人権の理念が形骸化したとき、独裁が歴史的必然として人々を包囲することになるだろう。2004年がその幕開けにならないと良いのだが。

(H16/1/14記)


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