森有人
月光仮面のおじさんは正義の味方よ、良い人よ・・・ では何故、正義に仮面が必要なのか?まさに正義という概念の不明瞭さを象徴する主題歌だ。イラクのフセイン元大統領が米軍の手についに落ちたが、うらぶれた姿にかつてアラブの正義を掲げ独裁の座に君臨した面影はなかった。それでも、自ら死を選択せず、洞窟の中で身を潜め生き抜こうとした姿に、関ヶ原の石田三成を彷彿とさせる英雄像が浮かび上がってくる。 豊臣秀吉没後、恩顧の寵臣が次々と徳川家康になびくなか、五奉行筆頭の石田三成は豊臣家への義を貫き、関ヶ原に臨む。しかし、決戦のさなかにあっても裏切りが絶えず、三成の義に運は傾かなかった。武士として腹を切ることをせずに、最後の瞬間まで情勢を見届けるために落ち延び、農家の洞窟に潜んでいるところを発見される。400年という時を隔て、ペルシャの地で、フセインが三成同様の姿でTV映像に映し出され、凡人とはかけ離れた英雄の心理のいったんを覗き見た想いがした。 イスラムの世界では、キリストの教えと共通に、みずから死を選択することは許されない。宗教的な事情もあったのか、落ちぶれ果てた姿を全世界にさらすイラクの英雄の姿は惨めそのもの。驚愕交じりの嫌悪感を持って、フセインの心情を推察した視聴者が多かったのではないか。だが、常人では到底絶えられないような穴蔵に隠れながら、バース党の残存兵力でテロ攻撃を指揮し続ける。その姿もまた常人の想像を絶する執念だ。 大阪・六条河原で断首に向う三成は、死を前にして「湯が欲しい」と護送役に頼んだところ、猿に餌をやるように干し柿を投げつけられる。そんな屈辱を前に、「柿は痰に悪い…生を養い、毒を厭う」と言い放つ場面がある。米兵からの水の申し出を拒んだフセインの姿とまさに二重映しだ。三成とフセインの正義の中身は、もちろんそれぞれだろう。イラク戦争ももとはいえば、米国が捏造した「大義」で始まった戦争。その後のテロも、アルカィーダとフセインの正義の闘いだとすれば、「義」は、事を構える名目に過ぎず、事を治める原理にはならない。そんな真実をはからずも浮き彫りにした出来事にも思える。やはり正義には仮面が必要なのかもしれない。 |