森有人
ノーベル経済学賞候補者の常連だったロンドン大学名誉教授の森嶋通夫さんが81歳の生涯を閉じた。合理性を追求する“近代経済学の鉄人”の一人でありながら、政治、経済、社会のそれぞれの実態を映したビジョンが熱く語られ、多くの読者を魅了した、その主張の中には、平和を語る情念があった。 足し算引き算の暗算も覚束ない筆者の30年弱前の学生時代、数学理論を駆使する経済学は、苦手中の苦手科目。そんな劣等生の脳ミソで、森嶋さんの理論経済学の著作を理解できるはずはない。しかし「英語力と頭の良さは反比例する」といいつつ、お世辞にも美しいとはいえないジャパニーズ・イングリッシュで、ロンドン大学で講義する姿や、「脳に衝撃を与えるのは良くない」との理由で、長髪の上に奇妙な帽子を被る“大先生”に親近感を覚えたりもした。なによりも、バブル崩壊と冷戦終結後の日本の将来を憂えて警鐘を鳴らし、専門外でありながら、「東アジア共同体」構想を逸早く提言した。そんな時代の先を読む森嶋さんの情熱に多くの日本人の共感を得たのではないか。 だが、森嶋氏が提言した平和と繁栄の「東アジア共同体」と似て非なる方向を、現実の世界が指向した。いま、世界の通商秩序は、WTO(世界貿易機関)新ラウンドが躓き、二国間FTA(自由貿易協定)締結の動きがトレンドとなりつつある。アジアでも、中国が率先し、ASEAN(東南アジア諸国連合)とのFTAの具体化に拍車をかけ、日本も対抗意識を前面に出して独自の展開を始動させた。こうした日本、中国、ASEANにみられる二国間FTA交渉から、将来の東アジア自由貿易圏、さらにはEU(欧州連合)を念頭に置く共同体構想へと議論が熱を帯びている。しかし、現在の議論には国家間の権力政治の色が投影され、共通の価値観で地域がまとまった共同体はイメージしにくいのが、いまのアジア情勢ではなかろうか。 60年前の歴史認識を巡る亀裂は、放置された状態が続き、一方で政治・安全保障と経済の両面で大国化する中国への警戒心がくすぶる。米国の力が突出した国際情勢はいずれ終焉し、世界は多極化に向うとの予測も少なくなく、2025年には日中の経済逆転が予想される。「だからこそ、いまアジア経済の主導権を確立すべき」という発想が、日本のFTA戦略に少なからず存在する。経済共同体を射程に置くとはいえ、これでは悪夢の大東亜共栄圏構想と発想自体、大差ない。 国際政治経済の問題は、グローバルテロの例でも明らかなように、脅威の根源を「文明の対立」や国家主体の協調関係に求めても解決策を見出せず、人間の安全を破壊する貧困、絶望にまで光を照射しなければならない。にもかかわらず、古典的な日米同盟関係や国連流の集団安全保障体制、経済連携に将来を賭けるニッポンの迷走が続く。森嶋氏の慧眼は、そうした大国主導の構想の限界を指摘したことにある。東アジアを11の行政単位に分割し、その中心(首都)に小国を置く。具体的には、日本国から独立した沖縄(琉球国)だ。なによりも、共同体構想という難行を前に、「過去の清算」という日本人に「痛み」を負う覚悟を求めた。 経済学は価値を排除した論理を土台とする「科学」を目指してきた、といわれる。企業も個人も自己利益を追求する合理的な“欲望の固まり”に違いない。一方でそうした経済学が求めた世界が多くの問題を含み、不完全な世界であることは、90年代以降の閉塞状況の中で、証明済みだろう。森嶋さんの死を悼みつつ、平和と繁栄のための情念的な主張を振り返り、社会の実態から遊離した経済学・経営学と、それに基づく経済運営や企業経営の挫折の意味を考える契機にしてみたい(合掌)。 |