☆ 失った10年 ☆

森有人

■ランドセルと防犯ブザー

 経済の先行きに曙光が射し、新年度入りを数週間後に控えたある日、知人のひとりからEメールが一通、届いた。5月に第一子出産予定だという。日々、大きくなるお腹を重そうにして、病院に足を運び、ベビー用品を買い揃えたりするのも、至福の時だとか。男の自分には想像できない人生の瞬間とはいえ、この手の話題は気分をさわやかにしてくれる。ところが、こんな明るい話にも落ちがつくの当代の社会事情だ。

 知人の妊婦は、百貨店のベビー用品売り場で、身重な体が軽くなるような気分で買い物を楽しんだ後、隣接する児童用品売り場をふと覗いた。「いずれ我が子にも、こんな生活がくるのだろう」と、7年後の生活に想像力を馳せつつ店内を見ていて、ある光景に愕然としたという。ランドセル購入者全員に防犯用ブザーが配布されているというのだ。子供が防犯ブザーを携行して学校に通わざるを得ない社会に、誕生してくる我が子が急に不憫に思えてきたという。意識して、他のランドセル売り場を覗いても、防犯ブザーのセットが販売され、さらに、学齢期の子どもを持つ友人に問い合わせても、祖父母からの入学祝いにやはり、防犯ブザー付のランドセルを、もらっていたという。妊婦でなくとも、ちょっとした衝撃のストーリーだ。

 暴漢が凶器を手に学校構内に乱入する。あるいは、子育てを放棄し、子どもを虐待し死に至らしめる親がいる。この手のニュースが珍しくなくなるほど、日本の社会は変化してきている。しかも、事件の当事者たちの年齢は、自分と同じか、その下の世代になってしまった。社会人という総称でひとくくりにされる集団に自分が分類されるようになって四半世紀の歳月が過ぎ、そのうちの半分の時間が、「失われた10年」+アルファという、未曾有のバブル経済とその後の長期停滞と混乱に相当する。生まれてきた子供に「こんな社会に誰がした?」と問われても、「知らんっ」と、無視できるような若年世代でもなくなってしまった自分に気がつく。

■数字で見えない変化  受動態か能動態か

 そもそも、聞き飽きるほどに耳した「失われた」という表現そのものに無責任な意味合いがある。経済的な停滞の原因として、政府のマクロ経済政策と改革の後れをいたずらに誇張し、挙句の果てはプラザ合意以降の米国の圧力と陰謀史観までが、にぎやかに登場したこともあった。これまでの波乱に富んだ道のりを冷静に振り返ると、「失われた」という受動態ではなく、個人も企業経営者も、「失った」という能動的な受け止め方をした方がより実態に近く、またそうする方が建設的に思える。

 内閣府が発表した2003年第4四半期(10−12月)の実質国内総生産(GDP)成長率は年率7%成長に達し、バブル崩壊後3度目の景気拡大局面に突入したという。経済は浮き沈みの循環を繰り返すものだから、不況が克服されるのは当然のこと。景気拡大といえども、地方と中央、中堅中小と零細の景況格差の溝は数字の上でも埋まらず拡大し、問題含みだとの指摘も目にする。しかし、より深刻な問題は7%成長に至るまでに、代償となった、数字に表現されない影の部分にあるのではないか。
 「成長・発展」は、こうした数字に表れる経済の拡大に加えて、関連する社会、文化、組織、制度といった数字に表れない部分を多数、含んだプロセスでもある。だとすれば、自らの責任の下に「失った」という能動態の視点を欠いて、数字に表れないこうした変化を体感し改革と発展に生かすことも難しい。縷々変転する過酷なビジネスの世界にあって、時にはランドセル売り場にでも足を運ぶのはいかがか。数字に見えない変化と新しい発展のヒントに遭遇できるかもしれない。

(H16/2/29記)


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