☆ 不毛な議論 ☆

森有人

 二国間の自由貿易協定(FTA)が地球規模のブームになっているという。世界の貿易ルールを決めるより、手っ取り早く二国・地域間でFTAを締結しようというのが狙いだ。戦後、多国間主義も掲げてきた日本の通商政策も急旋回し、FTA積極路線に舵を切ったが、その最大障害が国内農業保護派の問題。しかし、保護か自由化の二者択一で結論が出せるほど、この問題は単純なのだろうか?

 WTOの前身であるGATTでは、農産物は電話事業など同様に、鉱工業製品と一線を画し、非貿易財に位置づけられてきたが、流通技術の進歩に伴い、情勢が変わってきた。たとえば、欧米間で“貿易戦争”にまで発展したバナナ。筆者が幼少の頃の果物屋には、今のように見た目が作り物のように美しいものはなかった。現在では、北アフリカ、中南米といった全世界の産地から、いつでも旬のバナナが手に入る。

 といっても、栽培技術も、栽培農場も昔とほとんど変わらない。技術革新を背景に、多国籍資本が、蝋燭のようなバナナを、全世界に流通させているだけだ。農産物自由貿易支持派の米国も、伝統的に農業生産の担い手が家族経営なのはジェファーソン大統領の18世紀から変わっていない。生産現場の構造が同じなら、農産物をグローバル大に浸透した市場原理にゆだねても生産性が飛躍的に向上する保証はない。

 流通資本がグローバル市場でシェア争いを演じても、生産現場で農家どうしが競争し、隣の農家を追い出すような情景は想像しにくい。では、農業生産も企業に任せるのはどうか?という提案が出てくるだろう。熱帯地方のプランテーションを例外に、資本の回転率が年一回、種まきから収穫まで労働組織が分断した状態で、アダム・スミス流の協業によるメリットやマルクスのいう剰余価値も発生しにくい。自分が資本家なら、そんな産業に投資などしない。関心が向くのは、周辺の食品流通ビジネスがせいぜい。

 そもそも超経済大国の米国はじめ先進国が農産物輸出大国であること自体、比較優位の構図が教科書通りになっていない。にもかかわらず、農産物全般が市場原理に基づきグローバル市場にゆだねられるとどうなる。『世界がもし100人の村だったら』(ダグラス・ラミス著)、20人が栄養不良で1人が瀕死の状態という。この先も人口増が続く60億人の地球の食料事情を改善する効果は期待できないだろう。

 ここまでいうと、やはり農業は保護すべきという声が上がるかもしれない。だが、それは別次元の話。族議員と農業団体の主張は、食料・経済社会問題に配慮したものではなく、政治の駆け引きに過ぎない。保護一色で弱体化した農業と農村の実情が逆に、FTA論議の不毛さを例証している。

(H16/2/17記)


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