☆ ITの普及とマスコミ ☆


井出 薫


 ITバブルの崩壊で一時期隆盛を極めたIT革命論もすっかり影が薄くなった。しかし、ITは着実に私たちの生活に浸透してきている。最近では、ADSLの技術標準が大きな話題になった。

 2、3年前の通信回線の容量は、通信事業者の局舎を結ぶ中継回線で6Mbps〜150Mbps、各家庭・企業と通信事業者の局舎を結ぶ加入者回線で128Kbps〜1.5Mbps程度であった。これが、いまでは、中継回線で2.4Gbps〜10Gbps、加入者回線で1.5Mbps〜100Mbpsに達している。ルータやサーバなどネットワーク機器の能力は飛躍的に伸びかつ安価になった。ブロードバンド利用者は1000万人に達しようとしている。ITはいまや欠かすことのできない社会的インフラになった。

 「革命」という言葉は確かに誇大広告だ。だが、ITが社会に与える影響を無視することはできない。バラ色のIT革命論に同調するのは愚かなことであるが、IT革命論の破綻を以ってITなど取るに足らないと思い込むのも愚かである。

 ITの発展と普及にはよい面と悪い面がある。ITは、障害者や老齢者などの社会参加の機会を飛躍的に拡大する。政治・教育・医療など各分野で情報公開・市民参加を促進して、社会的公正の実現に寄与する。その一方で、私たちは年がら年中休むまもなく情報に追いまくられる。ITを利用した新しいタイプの犯罪が増加する。

 新しい技術が社会に浸透していくとき、このような二面性が生じることは避けがたい。問題は、どうやってITの長所を活かし短所を修正していくかである。

 私が危惧するのは、マスコミに頻繁に登場し市民のコンセンサス形成に影響を与えるジャーナリストや有識者、政財官界の中枢にある人々のITに関する知識の乏しさである。

 もう半年ほど前になるが、テレビの討論番組で、住民基本台帳ネットワークの是非を巡って、片山総務大臣と反対派の急先鋒である櫻井よしこさんが激しい論戦をくりひろげた。それをみて痛感したのは、誰もITを分かっていない、分からないまま論争しているということだった。そこには、技術的な知識に裏打ちされていない感情的な批判と独断専横的な住民基本台帳ネットワーク擁護論だけしかなった。*1

 ITを知らぬ者はITを論じるな、などと言うつもりはない。ITは専門家の領域をはるかに越えて社会に浸透している。ITはすべての市民に共通する話題である。だが、一般市民は、簡単に正しい情報や知識を得ることは出来ない。また、自分の意見を公共の場で述べる機会も与えられない。一般市民を代弁して問題を論じ、解決の道を探り出していくのが政治家とマスコミ関係者の責務だ。だが、政治家はもとよりマスコミ関係者も余りに無知だ。

 住民基本台帳ネットワークで問題とされているセキュリティだけではなく、IPアドレス、ドメイン名、ネームサーバ管理、技術標準なども、市民生活に直結する問題であり、専門家に任せておけばよいというものではない。だが、マスコミ関係者は問題の所在すらつかめていない。

 ITの専門家は、市民に情報を提供して啓蒙する能力と知識を持っている。だが、専門家は情報提供の熱意を持っていない、たとえ熱意があっても情報提供の手段を持ち合わせていない。マスコミや政治家は情報提供の手段を有しているが知識と能力がない。これが哀しいかな現実である。市民は誰を信じ何をすればよいか分からない。

 ITに限らず、バイオ、原子力、宇宙開発、化学製品、医療や薬物など科学技術に対してマスコミ関係者は無知すぎる。*2だから、やたら賞賛するかと思えば感情的な批判をする。

 この事実をマスコミ関係者は速やかに認識して、自分たちの知識を高める努力をするべきだ。幸いなことに、地上波デジタル放送の開始、WEB配信の普及などで、放送会社も新聞社もIT技術者を雇用・育成する必要に迫られている。実際に、すでに多くの優秀な技術者が働いている。技術者をコンピュータ室や伝送センターに閉じ込めておくだけではなく、社内講師として活用するなどして記者やキャスターの知識向上を図るべきだ。

 日本では、伝統的に官民を問わず理系と文系で仕事の役割分担が決まっていて、お互いの領分に立ち入らないというのが暗黙の合意事項になっている。これが公害や薬害への対応の遅れに繋がり、不毛な科学技術論争の温床になってきた。情報収集と情報交換に威力を発揮するITはこの垣根を取り払うために極めて有効な手段である。ジャーナリストや言論家と呼ばれる人は大部分が文系であるが、「俺は文系人間だから科学技術のことは分からん」などとは言わずにITを活用して大いに勉強してもらいたい。

*1: テレビの討論では、櫻井さんは、住民基本台帳ネットワーク図(らしきもの)を示してデータ漏洩の危険性があると主張した。それに対して片山大臣は「専門家がちゃんとセキュリティの問題を解決しているから大丈夫だ。」と反論した。時間の限られたしかも一般視聴者向けの番組で技術的な詳細を議論する余裕がないのは分かる。だが、時間があったとしても、二人の間で実りの在る議論が展開されたとは到底思えない。
*2: 日本で牛海綿状脳症(BSE)が大きな問題としてマスコミで取り上げられる大分前から、SCIENCEと並び世界で最も有名で権威があるとされる科学雑誌NATUREで、牛海綿状脳症(BSE)に対する日本政府の取り組みは不十分であるという主張がなされていた。このことから分かることは、マスコミが騒ぐ以前から専門家は知っていたということ、マスコミ関係者が無知なために問題に気が付かなかったこと、この2点である。


(H15/2記)


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