☆ 馬は肉!日朝関係の現実 ☆


 「人はカネ 馬は肉」―。ベールに隠されてきた北朝鮮の実情と首脳会談後の日本国内の動揺ぶりを見て、この言葉をふと思い出した。馬を農耕の動力源と輸送手段に駆使した北海道開拓農民の格言である。人はカネを得て、そして馬は肉付きが、それぞれの持つ欠点を覆い隠し、評価する人の眼を幻惑させる、という意味が込められた言葉だ。

9月の小泉首相の北朝鮮訪問で、日朝関係は新しい歴史の入り口に立ったかに見えた。だが、首脳会談前の期待に包まれた国内のムードは雲散霧消。あぶり出された拉致問題の衝撃的ニュースによって、問題の複雑さが乱反射し、「新しい関係」の扉が放つ異彩に戸惑うばかりだ。

 不振が続く国内経済の改革と、米国傘下の“バラマキ外交” “対米橋渡し外交”ともいえる冷戦期の外交戦略の再構築を迫られる日本。一方の北朝鮮は、衛星国家として提供されてきた旧ソ連の経済支援が途絶して以来、極度の食糧不足と経済難に苦悩する。「社会主義独裁体制」という「肉」を殺ぎ落とせば、瀕死の駄馬の状態である。

 「カネ」「肉」に頼らない真の外交交渉が不慣れな日本。そうした不慣れさもあって、拉致問題の一端を目の当たりにした世間は空騒ぎに近い動揺を増幅させる。しかも、相手方が纏っていた分厚い「肉」は途方なく異臭を放っていたから、厄介だ。

 これから先、双方ともに自分自身と相手国の本質を冷静に直視できるか?これが今後の両国関係を占うことになるはずだが、理屈の上では理解しているつもりでも、この時点で「冷静になれ」というのが無理な話かもしれない。「冷静に」といいつつも、メディアを通じて氾濫する情報は、拉致問題に対する北朝鮮の疑惑を目一杯に煽るのだから始末に負えない。

 日本の北東アジア外交の戦後半世紀を振り返れば、とくに政治・安全保障問題では、日米安全保障条約という「米国の傘の下」での出来事として繰り広げられ、日本が独自に意志決定し行動する範囲はごく限られたものだった。もちろん、今回の日朝首脳会談も事前に米国、韓国と緊密に連携した結果であるのは事実。

 しかし、「拉致問題」を交渉の筆頭に掲げて、安保や戦後処理について「包括的な処理」を目指す日本の行動は、ミサイル発射や核開発問題を最重視する米国の意図と完全に一致したものではない。従来の「対米橋渡し外交」と異なり、自分自身の情勢判断に基づき行動する余地が大きい。だからこそ、交渉力が問われる。

 「敵に似てしまったという意味で、我々も敗北したのではないか」―。テロとの闘いに武力で臨む米国の単独主義に警鐘を鳴らす宗教学者ロバート・べラー氏の言葉だ(朝日新聞9月24日)。真珠湾攻撃で戦端が開かれ、原爆投下で終結した太平洋戦争。共産圏拡大阻止を狙いに独裁国家への支援し続けた冷戦。いずれも、米国は勝利を得た。だが、攻撃の対象となる相手と同種の手段とり、同じ「顔」の国家になってしまった。その意味では「敗北」である。しかも、テロを戦争で解決した例は歴史に見当たらない。いずれも戦争ではなく、交渉によって打開の道が開かれた。

 あまりの惨状のために、どこかの国のように「ならずものの国家」の一言を加えて、一度開けたパンドラの箱を箱ごと破壊するなど非現実的であり、「同じ顔」の敗北を喫する。かといって、再び封印し放置すれば、「肉」は腐臭の度を増す。当方も今後は、「カネの衣」がぼろぼろと剥げ落ちてゆく。ここまで来たなら、やはり辛抱強く交渉の道を探るしかない。

 いかに難解で長期の交渉であろうとも、そこから導かれる「解」の評価は、成否のいずれしかない。気がかりなのは、「肉」の腐乱に反応する余り、交渉の落し所にまで世の中の議論が及ばないことだ。

(H14/11記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.