☆ 馬鹿で間抜けな僕の五輪 ☆


 トリノ五輪は、金メダリスト、荒川静香が銀盤を舞う余韻が後退するにつれ、日本選手団の目を覆う不振が再びよみがえり、やるせなさが自然に満ち満ちてくる。無様な敗者の続出、てんこ盛りが気に入らないのではない。ドラマがないからだ。

 五輪にのめり込むほどの五輪狂でもなければ、自国選手の活躍に一喜一憂することもないし、地球の裏側で開催される中継も一切、見ることもない。スポーツの結果だけで感動することもない。というのも、勝負に結果以外のモノを期待しているからだろう。まして、「判官びいきの国」で育ち、阪神タイガースの"滅びの美学"に馴れ親しんできただけに、自分は、敗者とドラマ性に憧れるきらいがある。自分にとって、五輪から、そんな勝負のプロセスを楽しむ素材が消えてしまったのは、いつからだろう?

 東京五輪で「東洋の魔女」を率いた「成せば成る」、「黙って俺について来い」の故大松博文。柔道日本の期待を一身に背負い、オランダの巨人ヘーシンクに挑みいとも簡単につぶされた神永昭夫選手、と「日本の皆さん、神永を責めないでやってください」と絶叫するアナウンサー。メキシコ五輪を控え、「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。・・・・幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません」と、遺書をしたため、命を絶ったマラソンランナーの円谷幸吉。勝者敗者の区別なく感動させる根性と挫折の交差するドラマがあった。

 いつからだろう。五輪と五輪報道を見ていると、日本中皆、馬鹿で間抜けになったような錯覚に陥るようになったのは。ええっ?予選落ち!失格!!!。そんな選手のインタビュー映像を繰り返し流し、へらへら照れ笑いする選手。もういいでしょう。メダルとれなかった選手のインタビューを朝から流すのは・・。スポーツで大国になる必要性は感じない。スポ根人生への憧れは、歳をとった証かもしれないが、メダルなんてどうでもいい。要はただ、感動するドラマがあればいい。いまそれを求めること自体、無意味なことかもしれないが・・・。

 
(H18/3/4記)


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